Archive for July 2007
29 July
「農」のある暮らし
「冬水田んぼ」
___ここは凄く良い所ですね!
湧き水が年中通して流れていて、しかもその水がとてもキレイなので蛍が出ます。
___湧き水が出るというのは、田んぼの環境としては恵まれている?
そうです。
町中にある田んぼは、「水利権」という水の利用料を払って決まった期間だけ使わせてもらうのですが、ここだと一年中湧き水が流れて来ていて、他の田んぼの都合に合わせることがないので「冬水田んぼ」というのをやりたいと思っているんです。
___「冬水田んぼ」?
最近見かける田んぼって冬になるとカラカラになっちゃって、冬の間カチカチの状態で放置していることが多いんですけど、それを冬の間も水を張っておくことによって、田んぼに育った虫等が死なずに、いろいろな生態系を残して行けるということです。
農薬を使っている所だと、益虫も害虫もまとめてみんな殺してしまいますが、本来なら、害虫が増えるとそれを食べる益虫も増えるし、さらにそれを食べる鳥だとか、いろいろなものを育むことが出来るんです。
全国いろいろな所で「冬水田んぼ」の取り組みがありますが、この小田原・大磯でもそういうことをやって行くと、そのうち渡り鳥とか遊びに来るんじゃないかと思っています。
宮城県で、唯一『ラムサール条約』(特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)に登録されている水田があるんです。そこが先導になって、「冬水田んぼ」が見直されるキッカケになっているんです。
その福島の「冬水田んぼ」や兵庫県の豊岡では、昔はコウノトリが飛び交っていたのですが、農薬を使っている数十年の間にすっかりいなくなってしまったんです。それで「コウノトリ育む農法」ということで、もう一度コウノトリを飛ばせようと、地元の方々が協力してやっている取り組みがあって、去年あたりは、野生のコウノトリが飛んで来て、五十数年ぶりに孵化したとか、そんなニュースが聞こえています。
宮城の岩渕先生がおっしゃっていることですが、「田んぼ」は単に「rice field(お米を作る畑)」ではなくて、「田んぼ」なんです。それは何かと言うと、お米を穫るだけではなくて、いろいろな生態系の舞台でもあるし、子どもが遊び回る教育の場でもあし、いろんな要素がある。昔から日本の集落は「田んぼ」があって、農作業があって、お社があって、そこを中心にまとまっていたんです。それが、農業が大規模化したり兼業化したり、農業を継ぐ人がいなくなってしまうと、集落自体の繋がりも薄れてくる。
ここの田んぼをやるうえでは、週末しか来ないとしても、田植えのお祓いや収穫祭とか、農業のお祭り事を体験しながらやって行きたいと思っています。
___「冬水田んぼ」という考えは古くからあるんですか?
江戸時代に書かれた農書にも記述があると聞いています。
田んぼに足を入れるとトロトロした感触がしますが、それは細かい砂と一緒に、イトミミズやユスリカ等の小さな生き物の糞の層が堆積しているんです。その層があると、雑草が生え難いんだそうです。
だから、今こうして草むしりをやっていますけど、「冬水田んぼ」を何年もやって土が出来てくると、こういう大変な作業は回数を減らしたり、やらなくて済むようになるんです。
江戸時代では、当然手作業でやっていたのでしょうが、そういった昔ながらの智慧があるんです。農薬とかを使うようになって、その辺はあまり日が当たらなくなって来ているかも知れませんが、試行錯誤しながらそれを受け継いで行ければ、と思っています。
それほど大仰なことは出来ませんが、「普通のサラリーマンをやりながらでもこれだけ楽しく出来るんだよ」というのはメッセージになると思っています。
「農」のある暮らし
___週末だけの作業でこれだけ田んぼが成り立つというのは、農業がとても身近に感じます。
本当はもっと頻繁に見たいのですが、私たちの場合は地元の農家の方にご指導いただいたり、平日我々が来れない時に様子を見ていただいたり、いろいろな意味で恵まれた条件が揃っていることもあります。
「畑」だと食べ頃を逃さない為には週末の作業だけでは少ないと思いますが、「水田」だと水の管理を除けばそんなに頻繁に来ないとどう仕様もないということはないんです。家の近所に畑を持てれば良いのでしょうが、水田は以外に取り組みやすいなぁ、と実際に取り組みながら感じています。
___そうすると、街の暮らしをしながら兼業できるような「仕組み」が出来れば良いのでしょうか?
そうですね。「仕組み」は必要だと思います。
実は、ここへ来てくれているメンバーは、山登りやマラソン等いろいろな遊びの仲間だったんです。「今度の週末、何をしようか?」という時に、「じゃぁ何処何処の山へ行こう!」というのと同じレベルで「田んぼに行こう!」と。そんな選択肢がいろいろな人に提案できるような仕組みがあると良いですね。
我々は「兼業農家」かも知れないですが、「農業」をやっているとは思っていなくて「農」なんです。「農のある生き方」なんです。
生業としてやっていくのは大変ですし、そこまでやるつもりはないと言ったら失礼ですが、やっぱり「農のある生き方」って当たり前のようで、難しいですけれども豊かな暮らしだと思います。
田んぼに来てまわりの畑を見ると旬のものも見えますし、何よりも、コンクリートの上だけで生きているのとは違った歓びや楽しさがありますよね。
(つづく)
街角の店
叩き上げ
___貴金属の世界でも、カリスマ的なデザイナーとかいらっしゃるんですか?
例えば、スペインのホアキン・ベラオさんや、ティファニーにいらっしゃるピカソの娘さん(パロマ・ピカソ)とか。
日本にもいっぱいいらっしゃいます。
ほとんどの方が、専門の学校に行って彫金や石の勉強をしてる方が多いと思うのですが、私は家業だったので、叩き上げのような感じで(笑)。
普通の大学で心理学をやって、卒業したらすぐにこの仕事をやらなくてはいけない状況で、専門の学校に行ったことはないんです。必要な時に必要な部分だけを習いに行くような感じでした。
___教室での教え方にも、それが反映しているように思います。自由にやらせる部分と、ガイドラインをきちんと示す部分と、そのバランスを心得てらっしゃるように見えます。
せっかくいらしていただいているので、一つは技術が上がっていただきたいという思いがあるんです。だけど、楽しいことが一番。楽しく、キレイに、自分が良いと思ったものを作っていく。
なるべく自由に、思ったようにやってもらって、ポイントだけ「工具の使い方はこう!」みたいな時に言わせていただく。
全員に同じことを言っても仕方がないですよね。その人に必要のないことだと覚えられないし。
___教える場面でも個別対応。
個別ですね。私の場合、クラスは8人くらいまでです。
人の始まり
___心理学を専攻されていたということは、先生をめざしていた?
小学校の先生になりたかったんです。
「教育」というか、人の始まりの根底のようなところを一緒に勉強できたらおもしろいだろうと思っていたんです。
___話が大きくなりますが、今の「教育」についてお感じになることなどありますか?
話大きいですね(笑)
「ゆとりの教育」とか言いますが、何か違う気がします。もっと根源的な「自然」の所に連れ出すような時間があった方が良いですよね。
「街」の価値
___ジュエリーショップというと「街」と切り離せない。「街」の中での存在。かたや「スローライフ」など、「街」から離れることへの価値観がある。その辺は、どうお考えですか?
出来れば「街」から離れたいかも知れない。
高価なダイヤモンドを見る時も、もっと空気のキレイな所で見た方が良いと思うんです。 アクセサリー・スクールも、すごく風の入る所で出来たら気持ち良いと思う。光とか。空気感。
ジュエリーショップというと、黒が基調でピンスポットが当たったいるような暗いお店がいっぱいありますが、私は違うと思うんです。もっとナチュラルな場所で見た方が、本当の色も分かるし、嘘がない。そういう所で見た方が良いし、選んで欲しいと思う。
___貴金属についても、「街」を離れて商売が成り立つと思いますか?
やってみないと分かりませんが、ナチュラルなストーンの場合は、かえってその方が良いと思います。
都会的なもの、都会にいる人が選ぶジュエリーは、少し難しいかも知れないですが、逆にそれを価値を思って買いに来てくれる人はいると思うので、やってみればまぁまぁ成功の方じゃないかと思います。
___私も美容師として「街」との繋がりはテーマなんです。流行と切り離してのファッションは有り得ないので。
でも、「美」という精神性が経済システムに取り込まれていることに、違和感を感じています。
私もそういう仕事に関わっていて、いつも居心地が悪いことは悪いですね。
___藤沢さんの場合は、「天然石」というのが一つの突破口なのでしょうか?
「自分が息が出来る」というか「自然」になれるところのような気がします。高価な貴金属だけでは息が詰まるところがあって。
でもかたや「流行」は面白いですよね。都会から切り離された所に移って行ったら、それが新たな悩みになるかも知れないですね。 流行のものを置いてもあまり意味がなくなる。
___ 最先端のものと、地に根を張るもの。 私たちが両方見れるアンテナを持って「媒介」になれば良いのかな?
そうですね。
あとは、「街」そのものについても考えた方が良いかも知れないですね。ココにいながら、この街がもっと自然に近づくようなことを考える。
街の良さは、人がたくさんいて、人が簡単に出逢えたり、情報を直ぐに分かち合えたりすることだろうと思います。街角に店をつくることは、出来るだけ長い時間店を開けて、たくさんの人が入り込めるような場所をつくる義務があるような気がするんです。
私がココにお店を出して人と人が繋がっていく場所をつくることによって、どういうカタチか分からないけども、自然にみんながこの街を居心地の良い空間にしていくような努力を協力してできるような、そういう流れがつくれたらいいと思っています。
___人が集まる場所を提供するということは、すごく大きな意義がありますね。
それは商売をやっていく人だったら義務みたいなものだと思っているんです。
それで私たちも生活させていただいているのですから、いろいろな人と逢う機会があって、より良い何かを生み出す力が生まれるような場所を、いつもここに作っておくということがとても必要ですよね。
22 July
土地の持つ「気」
憩える農園
___開園から3年とのことですが、「無農薬・無化学肥料」や「土地の個性」というメッセージは当初から発してらしたんでしょうか?
当初から発していたのは、「人が憩って楽しめる農園」ということと「無農薬での栽培」の2点でした。
それで、皆で六畳の小屋を建てたんです。その小屋の存在が大きかったです。
___集える場が出来ることは大きいですね。
たった六畳ですが、そこへ東京からもいろいろな方がいらして、皆が憩って行かれた。それで「憩える農園」ということを思い始めたのかも知れません。
開園してからは、集って来た方の風や言葉や感想から、逆に、自分の村の個性に目覚めさせられました。
___これからの展開はどうお考えですか?
出土した重要文化財の土偶も、囲っておくのではなくて博物館に収めた方が良いと思っていましたが、この古い里山を含めたアピールをしたいという時に、やはりこの村で本物の土偶が見れることが一番良いなと、私自身の考えも変わってきました。難しいことだとは思いますが。
この里山の景観を残すということの他に、自分でも思いもよらず、外からの人との交流の場にしたいという願いに導かれています。
この村を輝かせる、と言っても、とにかく人を呼ぶとか何かを造成するというのではなく、自然の「気」を感じれるような場でありたいですね。
土地の「気」
___私ここまで車で来ましたが、現代文明の乗り物で立ち入ることがはばかられるような神聖さを感じました。今の時代は、自然と人間との関わりを模索していますね。
僕が「交流」と言っているのは、それなんです。
主義主張や国籍を超えて、自由に本音で生きる。それを農園祭のスタッフが共有している。一番大事なのは、差別がなく、平和で、戦争がない、ということですから。
___人々が集う、その核になる本質は何なのでしょう?
此所の場合は、土地の「気」でしょうね。
去年の農園祭では、「此所へ来て、こんなに自分が許されて自由な気持ちになったのは初めて」という感想がありました。癒されるとか心地よいとか、それは土地の持つものじゃないでしょうか。
誰かがカリスマ的にトップにいるのではなくて、それぞれが自由な表現をしたりするような、此所はそういう場なんじゃないでしょうか。
___だからこそ、古代に此所に集落が出来た。
昔の人は、良い「気」を感じる力が強かったのでしょうね。
そこで、良い気の場所に神社を建てたりした。しかも、そこを独り占めするのではなくて開放する、という精神だったんです。
また、縄文の世は、戦争の無い時代だったんです。武器が見つかっていないんです。簡単に言えば、人々が仲良く暮らしていた。弥生くらいから、権力のある人が倉庫を作って米を蓄えたりして、上下関係が出来てきたり、争いが起きてきた。武器が見つかって、戦の痕も見つかっている。
縄文というと、土器のことや、食べ物が雑穀だったということも興味がありますが、それ以上に「なぜ戦が無かったのか?」ということが僕にとっては大きなテーマです。
___雑穀ということをおっしゃいましたが、稲作が始まったことの影響が大きいのでしょうか?
そうだと思います。
でも、水田耕作で稲作をしても戦にならないシステムや精神性があれば良いんです。何故争ってしまうのか、それを考えると面白いですよね。
昔の人は、気が良い場所を神社にして共有した。今のように、お金持ちが土地を囲って他人を入れない、というような精神構造ではなかったんですね。
___そういう思いで、この農園を開放なさろうとしてらっしゃるんですね。
理想はそうですね。この村がモデルケースになれば良いです。
憧れと模索
自分で気に入った作品ほどサッと売れて行ってしまうんです。
___藤沢さんのブログは「てしごとDiary」というタイトルですが、ご自身の中で「作家」としての比重は大きいのでしょうか?
「作家」について、いちばん憧れがあるかも知れないです。(笑)
いつも、ちょっとした時間で作ることで「てしごと」を終わらせているのですが、本当はそこに没頭してそれだけで生きて行けたらカッコいいなぁと思う。
カタチとして工房をつくることは簡単なんですが、飽きっぽくてじっと座ってられないんです。(笑)静かに座って思索している人には憧れます。
___驚いたことに、今まで個展をなさったことないんですね。
そうなんです。「何処何処でどんな作品展をやった」というのが作家にとっての経歴なんだ、ということに最近気づきました。私にはそれがなくって。(笑)
___作品展で作品が売れる、ということを考えれば、日々作品展なのでは?
そうなのかも知れないですね。
ありがたいことに、作って出したらすぐに売れて行く。留まっていることがあまりないんです。もう少し作品をためたい気持ちもあるのですが、自分で気に入った作品ほどサッと売れて行ってしまうんです。(笑)
なかなか動きが落ち着かないのですが、それは恵まれたことだと思います。
作品づくりは、石に助けられることが多いです。
___その辺り、デザイナーと作家とでは一線がありますね。
そうなんですね。
私には、すぐに作って出さないと間に合わないお客さまが先にいらしたので、その方に合わせて作っているうちに、時々「作家」と呼ばれるようになっていったんです。
___作品づくりのアイデアは、いつもどんな感じで訪れるんですか?
う〜ん、降ってくる時もあるし、苦しんで苦しんで、以前のものの繋ぎ合わせになっている時もありますが、たいていは石に助けられることが多いです。「この石をどうやったら一番たのしく見せられるか?」とか、実際にお客さまがいらっしゃるので「その方をキレイに見せるにはどうしたら良いか?」というように考えると、それほど苦しいことではないです。
ただ、毎月の教室のテーマ作品については、ちょっと大変な時もあります。トレンドを取り入れたい気持ちもありますし、天然石ですから素材を活かしたいし、せっかく習いにいらして下さるので少々難しいテクニックも盛り込みたい。そういうことを考えると、普通にお売りするものと教室でやっているものは少しスタンスが違いますね。
___これからの展開については、どんなお考えですか?
今年はアクセサリー・スクールが10周年を迎えることが出来たので、何かまとまった形で皆で発表するものや、一人で展示するものや、出版物にまとめたりもしたいと思っています。作品集であると同時に、作り方が載っているようなものを考えています。
仕事を最小限にしたら、人との繋がりが最大になった。
15年間小さなお店をやっていて、3年前に主人が大阪に転勤をするというので、一度お店をたたんで、最小限のことだけを小田原で仕事をしようと思ったんですね。20日間は大阪、10日間は小田原。その中で出来るのは、自分の売ったものに対してのメンテナンスと、教室のこと。その2つのことだけをやるためのすごく小さな事務所をつくったんです。
人から見ると、ボロボロのビルの3階に行って「泉さん何してるんだろう?!」っていう人もいたハズなんだけど、結果的には、そこで出来た友達が今をつくっている。
ビルの入居者同士みんな仲が良くて、「長屋」と呼んでいました。朝行けば他の会社の人でも「おはようございます!」から始まって、お菓子をいただけば隣の会社にお裾分けしたり、兄弟のように仲良くなりました。
そこから展開して、いろいろなコラボレーションをしたり、誰かのお手伝いに行ってそこでまた人と出逢ったり。
そんな流れで、今回のお店は出来てしまった感じです。
___今でもその繋がりは活かされている?
そうですね。まだそのビルの中に小さい部屋を残してあります。
今考えるとすごく不思議な3年間でした。自分では仕事を最小限にしたつもりなんだけど、人との繋がりが最大になった。
そこで私が楽しそうにしているから、お客さまもやって来る。 みんなウチの部屋で溜まってました。(笑)
一日中お茶を出さなきゃいけなくて、ずっとおしゃべりして、自分の仕事は夜9時から。9時から12時まで一生懸命作って、昼間は人とおしゃべりをして。そういう感じでした。
___人の繋がりって、財産ですよね。
財産ですね。本当にそう思います。
進化の途中なので、何かメッセージを伝えようというのは、今は無いです。
___今こうして出店なさって、新たなネットワークづくりはいかがですか?
今回の特徴は、パートナーのackeyと年齢が10歳くらい違うことですね。お客さまの年齢層が違うので、それぞれが交流していくことが新しいと思います。年齢も生活スタイルも違う、そういう交流が出来つつあることが、すごく面白い。
___世代を超えて広がって行くことはワクワクしますね。
そうですね。私も若返るというか。(笑)
___世代間で伝えて行きたいことはありますか?
これを伝えて行きたいというのは、もともと無いんです。
黙って見せて、どんな反応をするのか、それを今は観察しているようなところがあって、自分がこれで良いのかも、今は分からないです。私は、ずっと分からないのかも知れないです(笑)。
ついつい難しい方へ択んで行ってしまうところがあって、みんなが「そうだ」と言うと「いや違うかも知れない」と言って、自分一人でまた違う方向へ行きそうな気がします。
進化の途中なので、何かメッセージを伝えようというのは、今は無いです。
___じゃぁこれからが楽しみですネ。
それを楽しんでくれる人が来てくれて、一緒に考えるような所が良いんじゃないかと思っています。
先日も、あるおじいさんが店にいらして、このお店がすごく気になるみたいなんです。3回ほどいらしたんですけど、「今の世の中、みんな迷ってるんだよ!」って言うんです。「迷ってるんだから、決めてやらなきゃいけないんだ!」って。
私が「違うんです!迷ってて良いんです!私は自由だと思うんです!」と言うと、それが楽しいらしくて、「君は面白いねぇ!」って。
哲学みたいでしょ。(笑)
何でそんなことをおっしゃるのか、私もそんなにムキになるのか、でもこのお店についてすごく興味があるそうなんです。
___これからも模索し続ける。
はい!
模索したいですね。好きですね、模索が。(笑)
15 July
人が集う里山
「山田村」
___この辺は「山田村」と言う土地なんですね。
正式には「山田村」という名前は無いんです。昔、この辺の里山が「山田」と呼ばれていました。
___こちらからは遺跡が出たそうですね。
昭和9年にウチの敷地内から縄文晩期の土偶が出土したんです。名前は無いのですが「容器型土偶」と呼ばれていて、中に骨が入っていたんです。国の重要文化財に指定されています。今は金庫に眠っちゃっているので、これを何とか皆さんが見れるように展示したいと思っています。
縄文ファンにとってはとにかく価値のあるもので、国の代表としてルーブル美術館や万博で展示されたりしたのですが、この土偶がここにあれば、ここから出たという事が全国から来た人に分かる。
5〜6年前には、昭和女子大学のチームがこの近辺をさらに発掘したんです。そうしたら、弥生期の炭化した米が出た。
___ということは、ここで稲作が行われていた。
そうなんです。2500年程前、縄文から弥生の境の時期。それが、関東地方では最も古いとされています。
___その頃からここには集落があった。
そういうことだと思うんです。だから、この里山は非常に古い村であった、と。
そして、黒曜石も出て来ていて、神津島とも古くから交流が行われていた。
ただ、そうしたことを、この辺の人たちはあまり知らない。
人が集う
___では、7月28日の『山田村夏祭り』はそれをふまえた企画なんですね。
そうです。
ウチの農園は今年3年目で、最初は、「無農薬・無化学肥料」という自分のこだわりを追求したくて始まったんですが、何故か開墾している頃から「人が集える場」になって、さらに開園してからは、周りの方の反応を感じて、それがこの村の「個性」や「歴史」に僕が目を向けるキッカケになったんです。
そうしたコンセプトが明確になって来たというのが、今の状況です。
あと石釜を今年作ったんですが、この里山で穫れた小麦やブルーベリーでパンやピザを焼くということで、今後の村を表現できればと考えています。薪も豊富にあるので。
___古代の人たちも、そうして火を使っていたんでしょうか?
石釜は無かったでしょうが、薪を使ってやっていたと思います。
石釜は、農園独自の個性として、私が作りました。今後は自分で栽培した地粉を使って出来れば良いのですが。
ブルーベリーガーデン旭
___ブルーベリーは無農薬・無化学肥料で栽培してらっしゃる。
無農薬というのはあると思うのですが、無肥料というのはあまり聞かないですね。生育にはバラツキが出ますが、それに肥料を与えて大きくしようという考えは無いんです。
「自然農法」ということに感銘を受けて、それでやっています。
___ブルーベリーをお作りになってどのくらいになるんですか?
この秋で、植えてから6年になります。
___その前は、ここはどういう土地だったんでしょう?
祖父の代は、専業のみかん農家でした。それが暴落してしまって、父は農業をやらずにサラリーマンになって、みかんを切って杉を植えたんです。
とりあえず杉にしてしまったけれど、それを販売する計画も無かったようで、そのままあまり管理されずに、20年間ここは杉山だったんです。
僕も農業をやるつもりはなかったんですが、いろいろな流れで、杉を切ってブルーベリーの畑にしました。
当たり前すぎて、気づかない
___「流れ」とおっしゃいますと?
もともと絵と音楽が好きで、油絵を志したんですが、美大に落ちたり体調を崩したりして、それで自分の住んでいる土地の豊かさに気づいたんです。
___では「農園」ではなくて「アトリエ」という発想もお有りだったのでは?
そうなんです。だから、農園でコンサートとか、農業と芸術の融合という考えで進んで来たんです。そのときに、この「村」というものの興味を探っていくと、見過ごしていた歴史に気づいたんです。
やはり自分にとっては、ウチから出た土偶ですし、当たり前過ぎてボヤケていたんですが、去年の農園祭で土偶の見学会をやったら、かなり皆さん衝撃を受けて、そうした周りの人たちの感動やお話を聞いて、「あぁ面白い土地だったんだ」と思うようになりました。
___なるほど。生まれ育ってしまうと有難味がない。。
そうなんですよね。
絵を志して半年くらい都会で暮らしていたんですが、緑の無い中であまりに息苦しくて、こちらへ戻って来てスゴく「気」があることに吃驚してしまいました。
ずっと住んでいると当たり前過ぎて感じないんですが、外へ出てみると自分の住んでいる所の「気」を感じるんですね。
里山
___今日は曇っていますが、ここの空気は豊かで濃いですね。久しぶりに土の道を歩いてここまで来ましたが、土が柔らかくてフワフワしていました。
うん、やはり自然の生態系が生きているんでしょうね。
公園などの土は、草を排除して踏み固められていますが、今歩いて来た雑木林や畑の中は、草の根が土を耕して、虫も生きているし。
___里山に見える風景というものは全部人間の手が入っている、ということを読んだことがあります。
そうですね。特に水田や雑木林。ウチの雑木林も、人の手が入らないと竹が覆ってしまって歩けなくなってしまう。
雑木林の心地よい空間は、人が落ち葉掻きをしたり下草を刈ったりして管理をしている。20年毎に木を切ったり、下草を掻いて堆肥にしたり、人の手が入って里山の環境が保たれていた。
___じゃぁ、ここから見える風景は、まだ自然と人との交流がなされている。
まだ辛うじて皆さん水田をやってますから、美しい風景がずっと続いてくれれば良いですね。
___20年間放置された杉林から畑に戻すには、苦労が大きかったのでは?
最初は、切らなくちゃいけないということで、チェーンソーで。何百本あったんですかねぇ、、(笑)
その時は、私自身、自然の生態系を活かした「自然農法」という理想はあっても、実際に何を栽培するかというのは頭に無かったんです。ただ切っていた。(笑)
そうしたら、今まで真っ暗だったのが広がってきて、だんだんこの景観が広がってきたんです。それで、切っている途中もいろいろな人を招いてお見せしたら、皆さん喜んで、ずっと一日居たりするんです。
それで、「無農薬」ということもありながら「人が来れる所」にしたい、という2つが芽生えたんです。そうしてブルーベリーの摘み取り園ということになったんです。
(つづく)