Archive for September 2008

28 September

Love is Life to Woman (08.9.28 OA)

#1 Love Is Life To Women / Love Tambourines “Deeper love”
#2 We Need Love / Johnny Osbourne “A Broke Down Melody (Music from and Inspired By the Film)”
#3 The Get Down / Gene Russell “Talk To My Lady”
#4 On My Own / Daniel Jobim “Sweet Bossa, Burt Bacharach~ (They long to be) Close to you”
#5 Love Is Stronger Than Pride / Hedvig Hanson “What Colour Is Love?”
#6 How Deep Is Your Love / The Bird and the Bee  “Please Clap Your Hands - EP”
#7 Minhas Ondas / White Cubes “Music for Contemporary Living, Vol. 1”
#8 Stronger Than Before / Chaka Khan “I Feel for You”
#9 And I Love Her / Diana Krall “(I Got No Kick Against) Modern Jazz - A GRP Artists' Celebration of the Songs of the Beatles”
#10 Good Love (feat. Deni Hines) / Angela Johnson “Woman's Touch”
#11 Dot In My Heart / Ann Lewis “Heavy Moon”

[opening theme] Everything You Do / The Gadd Gang “The Gadd Gang”
[ending theme] Virginia Sunday / Richard Tee “The Best”
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20 September

moon & deep femail voice (08.9.21 OA)


#1 The Moon Is Crying / choro azul "3 -tres-”
#2 月の光 / ベイ・シュー "Moonlight”
#3 月の砂漠で (Ice on Desert) / Calm "Silver Moon”
#4 Voices of the Moon / Anoushka Shankar "Rise”
#5 Love Is Blindness / Cassandra Wilson "New Moon Daughter”
#6 If I'm Still Around Tomorrow / Sadao Watanabe "VOCAL COLLECTION”
#7 Breathe / Lalah Hathaway "レイラ・ハサウェイの肖像”
#8 Driving / Nina Vidal "Nina Vidal”
#9 Drehlicht / F.S. Blumm "Summer Kling”
#10 From Moon to the Sun / Goma "Soul of Rite”
#11 Let My Love Shine (Flute) / 藤原ヒロシ "Getting Over You”

[opening theme] Everything You Do / The Gadd Gang “The Gadd Gang”
[ending theme] Virginia Sunday / Richard Tee “The Best”


 

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14 September

ものづくりの骨格

artist file "tanebito" [Archives #8] 
安藤 和夫 さん(創作家具 /安藤工房


___安藤さんは、伝統的な技法で家具を作ってらっしゃいます。

 「伝統」を学びたい、ということがスタートにはあります。でも、それは目的ではなくて、自分が届きたいことの道すがらに「伝統」というものがあって、それを避けて行く訳にはいかないので勉強している、ということです。
 造形を欲するというのは、大げさに言えば、一人の人生の中で人類史を再現するようなことだと思うんです。「ものづくり」という仕事はそれをやらなきゃいけないと思っています。
 こういう仕事をしていると、よくオタクだと思われるんですが、オタクには家具は作れない。「ものづくり」には、オタクくらいの熱量の高さは必要だけど、クールに全体を見渡せる力がないと、特に家具は作れない。何故かと言うと、人が使うものだから。
 そういう、家具という仕掛けが面白くて家具屋になったんです。その中に芸術的な要素があるとしても、そんなものは客の側が求めていなかったりもする訳です。(笑)だから僕は、自分らしさというものを削いでいく仕事をずっとやってきた。独立してから22年、ずっと引き算の旅をしてきました。

___「引き算の旅」?

 辛いけど必要なことだったので、行かざるを得なかった。逆説的に、それが「自分探し」をすることになっていたのかも知れないですね。
 見たことも無いものを見た時に、人は感動なんてしないんです。何かどこか、自分の中に響き合うものを感じた時に、それに惹かれるんです。そこにあるのは何かと言ったら、「個性」というよりは、「普遍性」の方なんです。「個性」とは、デコレーションを付けるように作り出すものではなくて、削いで行って削いで行って、それでも滲み出てしまうもの、隠れようがなかったものがあるとしたら、それが「個性」なのだという捉え方なんです。
 「もの」を作るということは、そのことによって生活に大きな影響を与える。極端に言うと、生活を規定してしまう。
 資本主義の社会では、「もの」をどんどん新しく作ることで欲望を喚起して、欲望までも作り出して経済をまわして行く。「引き算」は絶対にしない。それが今の時代です。「引き算」であるはずの「エコ」ですら、「エコ」という着物を着せることで売れるから「足し算」に使われている。
 こんな時代に、もの作りで思想的に提案するとしたら、作ることを止めてしまうしか無い。そうもいかないので、パラドックスですが、「もの」を作ることによって「もの」を否定して行くことを考えています。
 いつの時代もそうですが、僕は根源的な所へ戻って仕事をしたいと思う立場なので、骨格がきちんと在った上での装飾が美しいと思っています。でも、怪しいものも大好きですが。(笑)


___家具の製作は、クライアントさんの依頼を受けてなさっているのですね。

 今、僕はふたつの役割を演じています。
 ひとつは「注文家具屋」という側面。 それは、例えばお客さんの「こんな機能が欲しい」とか「こんな棚が欲しい」というような要望を、プロとして、プロの技術でそれを実現してあげる。
 でも「注文家具屋」ということだけだと、様々な制約から、どうしても欲求不満になってくるんです。その部分を僕からの提案ということにして、「作家」として時間割を作っています。

___クライアントさんとの間には、かなり濃密なコミュニケーションが必要ですね。

 そうです。相当な想像力が必要ですね。
 僕に注文をくださったということは、戦いを挑んできたわけですから。 過酷ですよね。(笑)

___その戦いは、やはりチャレンジングですか?

 それはクライアントに対してのチャレンジではなくて、「時代」に対してのチャレンジですね。
 クライアントと僕とは、共同製作だと思っています。それは、「未来」に対しての共同製作です。「何がこの時代なのか?」と自問自答しながら、「この時代が作った」という骨格のものが作れたら良いと思うんです。
 日本は、「手」の文化だと思います。「器物百年を経て精霊を宿す」という言葉があるように、手で使い込んでいくことによって物を育てる。手で磨き出していく。器物を100年使い込むことで、確実に別のステージのものになっていくんです。だからこそ、作る側は心して作らないといけない。


___そうやって「木」を見ていくと、語りかけてくるような気がします。

 「木」の方が明らかに僕たちより長生きしている訳ですから、樹齢数百年の木を伐るということは大変なことなんです。
 あたりまえのことですが、木は生き物だったということです。地球の一部であった木の、体を使わせてもらっているのだとしたら、その命の長さ、その命の量、それに対して僕はどういう仕事が有効なんだろうかとバランスを考えるようになりました。 少なくとも、感謝と悲しみをもってその「いのち」をいただくことはとても大事だと思うんです。
 そうすると物量としてはなるべく使わない方が良いのですが、 そこは、人間が最低限の量の仕事をすれば良い。量的には最低限、質的には最高の仕事です。ひとつひとつのものを丹誠込めて、未来に対する届け物のようなつもりで作っています。

___素材としての「木」には、安藤さんにとってはどんな魅力がありますか?

 「木」は素材ではなくてパートナーなんです。
 命は有限で、人間だけが死を悲しむ。人間は、そこに明らかに自然とは違う時間軸を見ているんだと思うんです。だから「永遠」という概念が生まれた。それを僕は形にしたい。「祈り」に近くなりますが、木の教えてくれることにどれだけ耳をそばだてられるかということを、自分の仕事にして行きたいと思っています。そうすると、木がなろうとしている形が何となく分かってくる。
 木の家具の注文を下さる方は「木って良いですね」と必ず言う。木を「自然」への入り口として、そこから「自然」を見ているんだと思います。ですから、僕はなるべく素性の分かる「木」を使って、「木」のストーリーを必ず語るようにしています。「木」に触ってもらって、「木」のエネルギーとその方とが何か響き合ったならば、それは素材を超えるんです。
 そこへ僕が技術をもって、「木」を器物に置き換える。それは、器物に置き換えた「いのち」なんです。使う方は、例えばテーブルという機能として使うのでしょうが、それは「いのち」をいただいている訳なんです。生活の中で「自然」を自分の傍に置いて、そこから大きなエネルギーをもらって行くのだと思います。そうして、大きなストーリーの中で、新しい1ページがそこへ加わって行く。その中のどこに自分はいるのか、ということだと思うんです。
 人間の自然観なんて、大したものじゃない。「自然」と言いながら、相当に不自然なことをしているんです。だから僕は、個人の為だけに作るのではなくて、その先にあるものの為に作っているんです。



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07 September

身体を神聖な寺院として

artist file "tanebito" [Archives #7] 
滝越 リクタ さん (sacred temple


___「リクタ/rikta」というお名前は旅の中で授かったそうですね。

 そうです。
 インドでいただいた名前で、サンスクリッド語だと思いますが、「空」とか「無」、「empty」という意味です。その時はまだ踊りを始める前だったので、ちょっと怪しい気持ちだったのですが、「empty」という意味を見て、それが自分を何かクリックしたので、すぐに名前を決めました。
 今自分がシェアをしていることが、まさに「無になる」とか「空になる」ということなので、すごく気に入っています。

___webサイトの自己紹介では、子どもの頃の初めての記憶のことについて書かれています。どんな体験でしたか?

 生きていることが、何か不思議な感覚だったんです。
 何かを体験したという訳ではないので、何を見逃しているのかハッキリ分かってはいないのですが、自分が認識している世界というのは全体の一部分だけで、そこだけを見て生きているような感覚がありました。友達といても、何かが違うような感覚がしていました。

___「生きること」にについて、その有機的な繋がりを本能的に感じていたのでしょうか?

 そうかも知れないですね。
 「生きる」ということと同じくらいの比重で、「死ぬ」ということがそこにあったような気がします。実際にそういう肉体的な危機に瀕していた訳ではないのですが、毎瞬がギリギリで、生きるんだったら本当に全部を味わい尽くして、死ぬときはバタンとトータルに死にたい、という思いがあったんだと思います。
 それが、子どもの頃は自分で把握できていなかったし、言葉にすることは難しかった。一人で崖の上に登って、「ワァー!」っと野生のような雄叫びをあげたりした記憶があります。(笑)何かがズレているんだけれど、それが何なのか全く自分でも分からないし、それを見ている周囲の人も訳が分からなかったと思います。
 大人になって旅をするようになってから、「あぁ、きっとこういうことを私は求めていたんだ」と、パズルが一気に合わさって、ストンと腑に落ちるようになってきました。何かが実際のカタチになって現れるようになってきたのは、旅をし始めてからなんです。もちろん、それまでの小さな積み重ねの時代があったからなのですが、目に見えて自分の求めるものに出逢えたり、それを表現して伝えていけるようになったのは、本当に最近のことなんです。
 海外で放浪生活をしていてこそ出逢える人がいたり、自分に気づきが起こったりしていて、そういう生活をしていることを活かせる役割がきっとあるはずだ、という思いが頭の片隅に長い間あったんです。
 今、日本での仕事は「タントラ」や「瞑想」のワークをシェアすることが多いのですが、参加者の方に「日本ではこういうワークはないですよね」と言われたりします。私も日本人ですが、日本人には無い感覚のアプローチでのワークは、やっぱり私が海外にいたからこそ得れた部分なんだと思います。それを皆さんとシェアすることは、私にとって本当に歓びで、私も参加者の方からいろいろなものを得ているので、バランスを取りながら橋渡しになれたら良いと思っています。

___旅は、今までどんな所へ行かれましたか?

 インドへは何度も行っています。5年ほど前に初めて行って以来、毎回どこへ行くかを決めないで、その時々で足が向いた方へ旅をしています。インドの人は、場所によって気候が違うからリズムや性格も違うのですが、とにかく一人一人がとてもユニークで、その瞬間々々に生きていて、固定概念では括れないですね。
 よく行くのはプーナというところで、外国の方が多く居て、楽器を持って来ていたり、好きなことをして過ごしているような所です。
 旅での一日一日は凄く大きな衝撃で、毎日が平手打ちを受けているように、何かが自分をクリックし続けている感じがします。その中で、今の仕事に繋がるような方向が出来て来たんだと思うんです。

___キャリアの始まりは「オーラソーマ」だったそうですね。

 7年ほど前に、たまたま立ち読みした本で「オーラソーマ」に出逢って、なんとなく本を購入したことがキッカケでした。
 本の背表紙に「あなたの好きな色は何色ですか?」という質問があって、いくつか色のサンプルがあったんです。だけど、私がその時に好きだったのは「白」と「黒」だったんですね。その白と黒がサンプルの中に無かったことに衝撃を受けたんです。
 その時は、色がまったく見えていない世界に生きていたんですね。その後、よく分からないままにオーラソーマのセッションを受けたり、自分がセラピストになる為の勉強をしていく過程で、「色が世界にあったんだ!」って気づき始めた。きっと街にはそれまでも「色」があったハズなのですが、それが初めてちゃんと目に映ってくれるようになったんです。(笑)
 そんな中で、ある時たまたまインドネシア・バリ島の旅行パンフレットでウブドゥのライステラスの写真を見て、「あぁ、ここに住みたい」と思ったんです。それで、オーラソーマのボトルを全部持って、バリ島へ行きました。

___旅のスタートはバリ島だったんですね。

 そうなんです。バリ島にはそれまで「オーラソーマ」はまったく無くて、私が初めて導入したんです。
 ウブドゥの村で、ヒーラーが瞑想しながらマッサージをすることで有名な【ボディワークスセンター】という場所があって、そのヒーラーの方を訪ねて行きました。片言の英語で、「私はこういうことをやれるので、やらせてもらえませんか?」と言ったら、「ちょうど部屋が一つ空いているので自由に使いなさい」と驚くほどスムーズに受け入れて下さって、そこでお世話になりました。日本人の旅行者の方を相手にセッションをして、バリ島にいる時間を楽しむ、という感じでした。
 それで海外に滞在する感覚に慣れて、この数年はそれに惹かれて、日本に戻っては旅を繰り返すような生活です。



___ベリーダンスは即興の踊りですが、それは、踊っていて流れが見えるのですか? 勝手に動くのですか?

 どうでしょう。。
 少し話がズレてしまうかも知れませんが、私がシェアをしたいことは、テクニックではないんです。ベリーダンスを扉として、エネルギーが周ることを体験するツールとしてのアプローチなんです。
 例えば手を動かすにしても「こう動かしたらキレイだ」という意識で踊るのではなくて、身体は叡智を持っていますから、どう動きたいのかは身体が分かっているんだと思うんです。その感覚をシェアしたいんです。
 もちろんエネルギーの流れがビジュアルで見える方もいらっしゃると思いますが、私はそれが見えている訳ではなくて、その感覚に乗っ取られてトランス状態に入ることによって、すべてが勝手に起こってくれる、ということです。
 それは、「信頼」の質だと思います。

___「信頼」?

 自分の「身体の声」に対する「信頼」、と言えば良いでしょうか。

___なるほど! まずは、自分自身の身体を信頼しなくてはいけないということですね。

 そうですね。
 身体から送られてくる言語への信頼は、自分のエゴや恐怖をちょっと脇に置いたり、手放せたりした時にポンと訪れるんだと思うんです。その感覚をシェアするためのツールが、たまたま「ベリーダンス」だったということなんです。
 そして、自分と一緒に踊ってくれた身体に感謝して、心と身体と魂に対して深呼吸をして終わりにするんです。それはそこで終わりにする。息を吐き出して手放す、ということですね。
 「呼吸」はそのものが「生死」ですから、短い時間でも生まれて死んでを繰り返している。そこへ入って行けるということは、ツールが何であれ素晴らしいことだと思うんです。

___『sacred temple』とは?

 「神聖な寺院」という意味です。
 タントラでは「身体を神聖な寺院として」ということを言います。

___そこ(身体)にはすべてがある、ということでしょうか?

 そうですね。身体がスタートです。
 今「スピリチュアリティ」ということが言われていて、過去世だとか守護霊だとか、「私たちは身体ではない」と言って意識が上の方へ行ってしまっている。もちろんそれも大切な要素なのですが、まずは基本の部分を体験すること。それを忘れたら、スピリチュアルな方向へは行けないんです。
 「セクシュアリティ」と「スピリチュアリティ」、実際的な部分と霊性とを、繋いでひとつに合わせることが私の仕事です。

___セッションに来られる方は、いろいろ問題を抱えている方が多いのですか?

 どうでしょう。。
 私は、「問題」という形でクライアントさんと出逢ったことがないかも知れません。いろいろな事を話してくださって、その中で、現状の自分に起こっていることや過去に起こったことについてはシェアをしますが、その時に「それが問題なんですね」というふうにはお聞きしないんです。その背後にはもっと大きな理由があったりしますし、それぞれがユニークなんです。
 そこにいつも見るのは「美しさ」です。

___美しさ、、

 「何故それが起こったか」ということの背後には、私たちが把握していないような、もっと大きな目的があって、それは人によって呼び方はいろいろですが、それこそ「神」の意志と言ったり、「宇宙」と言ったりする。
 私たち一人をとっても、いろいろな面を持った多面体で、それで一つの宇宙をつくっている存在なんだと思うんです。そこにまた他の人が関わってきて、社会だとか職場だとか、親との関係とか、いろいろなことが複雑に絡んでいます。宇宙も同じで、太陽系をとってみても、いろいろな惑星があって、それぞれに影響し合っていて、それでも全部が正しい場所にあってバランスが取れている。
 だから「AとBの付き合いがどう見えるか」というだけで「良い悪い」ということではなくて、その他に絡まっている様々なものをトータルな写真にして見てみると、実はバランスが取れていることに気づいたりする。それは、植物にしても食べ物にしても、人間だって宇宙だって、同じだと思うんです。
 そんな全部の写真を見たときには畏敬の念を感じますし、それをクライアントさんに開いていただいたて見せてもらうことができるというのは、セラピストとしての素晴らしさですね。



___「セラピスト」というのは、リクタさんにとってどんな仕事ですか?

 私がセラピストとして体験しているのは、「クライアントさんと一緒にいる」という、ただその状態なんです。「Do」というアクションではなくて、「Be」ということです。ジャッジをしたりストーリーを加えたりするのではなくて、ただそこにいて、目を見たり、呼吸をすることで、何かがポンと出て来るんです。
 クライアントさんをサポートする言葉が、自分じゃない所から自分を通ってやってくるような体験。「媒体」になるような体験を仕事を通してさせてもらっているということは、実は、もの凄いことだと思うんです。「セラピスト」や「オーラソーマ」が凄いというのではなくて、前も後もない「ただその瞬間にいる」ということがどれだけ全てか、ということです。
 「生きている瞬間」の積み重ねが出来て行ければ、何をしていようとどこに居ようと、あんまり関係ないと思うんです。

___「セラピー」は、セラピストとクライアントの共同作業だと思います。「ただ寄り添う」というスタンスを取るとすると、クライアント自身のアクションを促す為には、ただひたすら待つのでしょうか?

 どうでしょう。。
 その質問で思い出した出来事なのですが、空港の税関で長蛇の列に並んでいた時のことです。そこは、一列に並んで待っていて、空いたブースへ呼ばれて行く、というシステムでした。「これは長くかかるなぁ」と思って待っていたら、そこには空いたブースへ次の人を通す役割の方が一人いたんです。その方が「次の人、◯番ブースへ!」って動かして行くんですね。一日に何万人もそこを通るでしょうから、機械的にやってしまうような仕事なんだと思います。でも、そのオジさんはその機械的な仕事を、本当に愛情を持って、笑顔で楽しそうにやっていたんです! 一人一人をちゃんと見て対応しているんですね。ものの数秒だけの出会いの中なのに、ちゃんと自分を見てくれているということが、とても素敵だと思いました。
 もう一つ、エジプトで「ワーリング」という回りながら瞑想する人たちのショーがあったんですね。それは、ダンサーが大きなスカートを穿いて何時間も回るんです。それが円になって見えるキレイな踊りで、そのメインのダンサーがもちろん素晴らしかったのですが、その後ろに何十人かミュージシャンがいて、時々1人づつ前へ来て自分のテクニックを見せてくれる場面があったんです。もう皆さん本当に素晴らしかったのですが、その中に、カスタネットを持ったオジさんがいたんですね。カスタネットは誰もがやったことのある楽器ですが、その方は本当にニコニコと演奏していて、一打ちするだけで「あぁもう恍惚 ♪」という表情。(笑)もう皆もそのオジさんの恍惚に引っ張られて笑っちゃうんです。でも、そのオジさんを笑っているのではなくて、純粋にその「カチッ ♪」っていう瞬間が楽しい! そういう「魔法の瞬間」を見せてくれるオジさんだったんです。
 その二人に何が共通していたかと言うと、「その瞬間瞬間を、ちゃんと呼吸していた」ということだったんだと思うんです。つまり、「何をしているか?」ではなくて「どれだけそこにいるか?」ということなんだと思うんです。全部の瞬間において。

___「どれだけそこにいるか」とは?

 その「深さ」ですよね。時間を平行に滑るのではなくて、一瞬一瞬を下ろして行くということ。
 そうやって呼吸をして生きていたら、一日に何万人もカウンターに人を通すような機械的な仕事であっても、何時間経過したとか、そういうことは関係なくなってくるんだと思うんです。一瞬一瞬しかないのですから。
 旅をしていると、そういう素敵な「魔法の瞬間」を見せてくれる人がたくさんいるんです。そういう人たちに出逢えてきたことが、すごく大きかったと思っています。
 だから話が戻ると、大切なのは「誰がセラピスト」ということではなくて「自分がどのセラピストに気づいたか」ということなんだと思います。実際は、セラピストではなくても、自分の職業を愛している人に、何かをクリックされて癒されていたりしているのではないでしょうか。
 「その人が何をする人なのか?」ということは重要ではないことに、皆さん気づいているような気がしています。


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