Archive for October 2007

28 October

平成クロマチック鍵盤

artist file "tanebito" #09 [2/3] 
菅野 邦彦 さん(Jazzピアニスト)

ピアノの音が大好きだったんです。
兄貴は2年半鍵をかけて僕には触らせてくれなかった。
僕は壊し屋で有名だったの。


___スタートはクラシックピアノからだったそうですね。

 ピアノの音が大好きだったんです。兄貴が親父に頼んで買ってもらって、英国のピアノでした。当時、100円札でリンゴ箱2箱くらい。80万かな。
 僕には親父に買ってもらうような力はなくて、兄貴は2年半鍵をかけて僕には触らせてくれなかった。僕は壊し屋で有名だったの。(笑)どうして電気がつくのか、根本が納得できないと気が済まなくて、僕は電池まで分解した。
 音楽は大好きですし、ピアノの音なんて最も好きな音ですから。クラシックを2年半習ったんだけど、あの鍵盤では無理だと分かったわけ。
 音って、高い低いは一直線上にしかないんです。ベースはフレットが無いけれど、一直線だから音が探れるんです。トロンボーンもそう。高い音になると狭くなるけれど、一直線だから、キーが変わっても結局は同じことを演っている。それが、ピアノの鍵盤ときたらジグザクしているし、デコボコしていて、しかも黒鍵の間の白鍵は重い。これは、どんなことをしても到底無理な訳ですよ。
 そんなことが子どもの頃に分かっていたから、もう2年半で先に行けなかったですね。だから、こんなもの(独自に考案した完全にフラットな鍵盤)を作った訳ですよ。

___凄い鍵盤ですね、これは!

 是非やってくださいよ! 今からやったら、どなたでも、大変な大先生になっちゃう。
 皆さん、やっぱり先入観なんでしょうか。やらないもの。プロはやらない。下手になっちゃうと思うのかな、今までのものが。

___一回捨てないと出来ませんよね。

 本当に良いものをやるためには、今までのものを捨てるくらいの勇気がないと出来ない。何事もそうだと思いますよ。人間って、本当のことをやるには、無駄な時間も含めて、とんでもない時間を投げちゃわないとダメ。

ピアノはね、初めは一本指でやるべきなんです。
それがボール遊びなんです。
それから初めてパスをする。


 昔は音楽やっていても、ドラマーに灰皿投げたりね。説明できない訳。今こんな歳になって、長旅を終えて、ようやく若い人達に説明できる。
 まず一音なんです。要するに、ピアノっていうのはサッカーチームと同じなんです。一人一人が、チームを作る前に子どもの頃からボール遊びをして、ボールと会話をする時期が必ずある。それから、初めて友達が出てきて、隣の人へパスをする。
 だから、ピアノはね、初めは一本指でやるべきなんです。ドレミファソラシドも半音もメロディも一本指で出来るようになる、それがボール遊びなんです。それからドソミソと他の指へ行ってアルペジオになったりする。好きな友達へパスをする訳です。それが、バイエルのようにいきなりドソミソから始まっては滅茶苦茶です。みんな訳が分かってないの。今までの鍵盤のピアノでは、そんな発想は出ないですよね。それが、この鍵盤だと、ものの見事にピシッと出てくる。
 この鍵盤のピアノはドラムみたいにパーカッシブな最高の楽器です。良い音がしますよぉ!

___『ネコふんじゃった』は弾き難そうですね。(笑)

 いやいや、そんなことは無い。それも先入観なのさ。弾けてしまえば、12通り同じことですから。一つ確実に覚えて弾けるようになれば良い。だから、そういう意味ではプロの楽器でもあるんです。
 ですから、どんなことをしても子ども達にやっていただきたいと思うのですが、そうならなければならないでも良い。何百年後でも良いし。

___小学校で、この鍵盤を教材になさる計画があるそうですね。

 幼稚園とか、初めての子ども達には一番良いですから。
 今までの鍵盤を見ちゃってると思いますが、コレをやらなきゃアレが上手くならないことは分かると思います。コレが弾ければアレは弾けますから。ただ、あちらは面倒くさいしバランスが悪いし、訳が分からなくなる。そういうことを感じて、最終的にはコレしか無理なんだということが分かるはずです。

___そのプロジェクトは、もう具体的に動いているのですか?

 まだ具体的ではないですが、話を進めている人材はいます。鍵盤の完成品が出来てきていませんから、延び延びになっています。

もし、アマゾンの原住民たちが弦を張って楽器に再生したとしたら、
きっと僕の鍵盤みたいな形になっちゃうと思ったんです。
よけいなデコボコなんて無くて、一直線。


___このフラットな鍵盤は、いつ頃思いついたんですか?

 ええとねぇ、僕はレコード会社に追いかけられちゃってブラジルに逃げ出して行ったんですよ。そうして、アマゾンでいろいろな良い経験をしたんです。
 アマゾンでね、ゴムの栽培でものすごく栄華を極めた町があったんですね。そこにピアノがあったんですが、もう鉄骨だけで、朽ち果てて錆びちゃっていた。それをもし、アマゾンの原住民たちが弦を張って楽器に再生したとしたら、きっと僕の鍵盤みたいな形になっちゃうと思ったんです。よけいなデコボコなんて無くて、一直線。

___白黒ではなくて、ですね。

 そう!
 ハープを鍵盤にしたら、僕の鍵盤のようになるんです。

___なるほど。88鍵の全部が同じ幅で、平らに並んでいる。

 そうやっちゃった方が遥かに良いなと思って、ブラジルから帰って来てピアニカで試作してみたんです。そしたら、イケるんじゃないかと思った。
 平成元年にそのアイデアが出たの。それで、YAMAHAの最後の木工の人に作ってもらった。まさに「平らに成る(平成)」

___この鍵盤は工夫されていて、丸くなっていますね。

 指が入りやすいように丸くしたんです。

___今までの白黒鍵盤よりも狭いですものね。

 ピアノの幅は変わりませんから、一直線で均等にしたいと思えば白鍵は狭くなります。
 でも、鍵盤の真ん中を丸くしたのはすごく良かった。センターが分かる訳ですよ。真直ぐ打鍵できるから、音が良いんです。

___芯のある音が出る。

 野球のホームランは、丸と丸がぶつかる訳です。それでコーンと抜けた音が出る。最初は大変なんだけど、慣れるとピシッとハマる。逆に安心感が出てくるんです。
 今までの鍵盤だと、どこを触ったら良いか分からないし、鍵盤によって重い軽いがある。これは問題でしょ? 音をキチンと同じように並べることが先ず出来ないと、アクセント付けられませんから。
 この楽器を触るようになって、最初、僕もどうやって弾いたらいいのか分からなかった。6年前ですよ、ようやく分かったのは。(笑)

___弾けるようになる手がかりは何だったのですか?

 今までのピアノのようにナメてかかって大恥をかいたことですね。手も痛くなって散々でした。
 最初に発表したのは四国高松だったんですが、その次は何と南足柄のスリー・コードでこの鍵盤を発表させて下さったんです。小田原とはご縁があるんですよ。

___ピアノの準備は大変ですね。

 鍵盤だけスルリと取り替えられるのですが、その時はちょうど合うのが無かったので、下田の自宅からピアノごと運びました。

この辺りは気候も良いし、またまた奇跡の場所だと思っています。
チェット・ベーカーを日本へ呼んであげたかったねぇ。。


___この鍵盤での演奏を聴いてみたいです。

 もうじき完成品が出来ます。11月1日の檜ホールには間に合うと思います。毎月1日には檜ホールで演奏しているんです。

___檜ホールは素晴らしい所ですね!

 三石を見て、絶景でしょ。僕、あそこで子どもの頃潜ってたの。あの頃は漁師さんにも怒られなくてね。それが今、あんな素敵なホールでピアノを弾きながらそれを見下ろしているなんて、信じられませんよ。本当に幸せです。

___今は伊豆の下田にお住まいだそうですが、いつ越されたのですか?

 最後に南米から帰って来てからですから、11年目かな。南米へは7〜8回往復しているんです。
 ウチは代々、伊豆と縁があって、叔父が絵描きで西伊豆にアトリエをつくったもので、そこへ毎年行くようになったんです。僕は、この東海道、湘南から小田原、伊豆、静岡が好きなんです。日本でいちばん華のある所です。日本自体が奇跡的な場所なのですが、特にこの辺りは気候も良いし、またまた奇跡の場所だと思っています。
 小田原は秀吉の総攻めでこたえちゃいましたけど、その後は相当な剣客やアーティストがうろうろしてるね、ここは。そういう人を呼ぶ所ですよね。良い所だもの。
 チェット・ベーカーとNYで一緒に演った時に、僕は「日本へ是非いらしてください」と言ったんだけど、結局は僕がブラジルへ行ってる間に日本へ来ちゃった。その後またNYで会うんだけど、ちょうど彼はモンテカルロから帰った後で、「水の中の美しさは最高のドラッグだった」と僕に言うんです。「日本の海はどうなんだ?」と。(笑)
 モンテカルロは人口の海なんですよ。「伊豆の海に一度いらっしゃい!」と言っていたんだけど、ヨーロッパで亡くなっちゃった。彼はドラッグで知られていましたが、あんなに自然を愛する人だとは思いませんでした。日本へ呼んであげたかったねぇ。。
つづく


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18:00:00 | milkyshadows | |

23 October

菅野邦彦ライブ (湯河原 檜ホール)

  11/1(木曜日) 午後7時より
  湯河原 檜チャリティーコンサートホール
   お問い合せ 0465-63-8923


 

 【菅野邦彦さん/Jazzピアニスト】
  1935年、東京生まれ。
  アナログ時代に60枚ものアルバムをレコーディング。
  日本のミュージックシーンの先駆けとなった、大ベテランのJazzピアニスト。
  現在は、商業的な音楽産業とは一線を画して、
  南伊豆に移り住んで、本物の音楽を追求なさっています。
  「最高の音楽というのはドキュメントなんです」と、
  あくまでもライブでの演奏にこだわる菅野さんのプレーは、
  Jazzのフォービート、日本の音頭、ブラジルのサンバなどが融合された、
  シンプルかつ華やかでリリカルなピアノです。

 【湯河原 檜チャリティーコンサートホール】
  檜ホールは、
  真鶴半島を見下ろす絶好のロケーションに去年オープンした、
  総檜づくりの、とても素晴らしいホールです。
  材料は全て国産の檜だけを使用、壁は漆喰塗り。
  伝統工法で作られたその空間は、神々しいほどの美しさです。


現在は決まったバンドを持たずに、
出かけた先で、そこにいる友人プレーヤーと演奏するというスタイルの菅野さんですが、
毎月1日に、
湯河原檜チャリティーコンサートホール内「八角堂」で、
定期ライブをおこなってらっしゃいます。

 今回のライブでは、
 菅野さんが独自に考案した「平成クロマチック鍵盤/ハマール」(仮称)がお披露目される予定です。

 檜ホールの、オーガニックな音の響きと、
 菅野さんの、一期一会のライブパフォーマンス。
 メモリアルなライブになると思います。
 是非、みなさまいらっしゃってみてください。


 
  ↑ 平成クロマチック鍵盤(仮称/試作品)

 本物の音楽を求めて、菅野さんが辿り着いた一つの答えは、
 88鍵が全くフラットな鍵盤でした。


ピアノと言うとまず思い浮かべるのは、あの白と黒の鍵盤ですが、
菅野さんは、
そのデコボコな鍵盤の黒鍵を白鍵の間に引きずり出して
なんとまったく平らなものに作り替えてしまったんです。
それはちょうど、
細い竹のような棒がピッシリと88本並んでいるような状態。

ピアノ自体はそのままで、
鍵盤だけを乗せ換えるんです。

ですから、
ピアノの幅は変わらないので、
白鍵は、今までのものより狭くなるわけです。
そして、
ドの隣は、レではなくて、ドのシャープ。
全ての鍵盤が、
同じ幅で、同じ高さで、均等に並んでいる。

菅野さんのピアノは、
私たちの既成概念をまったく飛び越えた、
驚くような楽器です。

けれど、
お話を伺って行くうちに、
これほど理にかなった鍵盤はないなぁと思えてきます。

 
  ↑ フツーのピアノ(アクション部分を開いた状態)

 
  ↑ コレを乗せ換える(現在製作中)

 
  ↑ クロマチック・キーボード@ピアニカ


23:32:44 | milkyshadows | |

21 October

「最高の音楽というのはドキュメントなんです。」

artist file "tanebito" #09 [1/3] 
菅野 邦彦 さん(Jazzピアニスト)

僕は、商業意識なんて全くなかった。
音楽は商業意識があったら無理なんです。


___菅野さんの作品は、なかなか手に入れることが難しくて、ようやく『ポートレート』というアルバムを見つけました。これはもう30年以上前のレコーディングなのですね。

 兄貴(沖彦氏)の録音です。よく見つけましたねぇ。
 僕の場合は、1,000枚くらい出して、無くなるとサッと廃盤にしちゃう。CDとして正式にリリースしたものは2枚しかないんです。デジタルの音はどこまで行っても切れていて身体に悪いので,僕も兄貴もCDは録音しないことにしてるんです。神経をやられちゃうから。

___このアルバムでの演奏は、もの凄いダイナミクスです。

 録るのは難しいらしいですね。
 このアルバムは、兄貴がとにかくソロピアノで演ってくれと言うので、僕の好きなベーゼンドルファーのピアノで録りました。ソロピアノですから、独り言みたいなものです。
 45分弾いただけですから、これ。録り直しなんかしていない。

___それで『ポートレイト』なのですね。ライナーノーツには「最もサービス精神に欠けたこのレコード、そして最高にジャズ的なこのレコード」とあります。

 ほぉぉ。
 僕は、商業意識なんて全くなかった。音楽は商業意識があったら無理なんです。ジョアン・ジルベルトやマイルス・デイビスもそうでしたが、アメリカのジャズは残念ながらそれで終わっちゃった。

___海外のトップ・ミュージシャンとも親交がお広いそうですね。

 一流の人とは、全部遊びで演っています。向こうからは仕事を持ちかけて来るけど、こちらからは持ちかけたことがない。断っちゃう。

日本の「音頭」こそ、最高にハッピーなリズムなんです。
もう一度邦楽を真面目に聴いて、勉強してもらいたいですね。


___『ポートレイト』は1974年のレコーディングですが、その後はブラジルへ行かれた。

 それまでレコード会社はジャズなんて売れると思っていなかった。それが僕で商売になるいうと、あらゆる所がジャズ部門を作って、僕は毎日朝から追いかけられちゃった。それで逃げ出して行ったんです。ボサノバが特別好きだった訳じゃないし、勉強に行った訳でもない。どこでも良かったんです。カリブでも良かった。一番遠い所へ行こうと思って、南米なら真裏だから良いんじゃないかなって。(笑)
 結局、あらゆるレコード会社で片っ端から1枚づつ付き合った。友達がいるし、人が好いので。

___そうして60枚のレコーディングをなさった。

 僕のリーダーアルバムだけだったら50枚くらいかも知れないな。
 田舎の公会堂で誰かが録ったようなものも、レコードにして良いかと言ってきた。僕はライブはOKだから、LPで出す分には、気に入ったらどうぞ、って。そのお金で、ブラジルとか世界中を遊んでる訳。
 そういう意味では、数奇な人生だったなぁ。今までの音楽家の中では、一番お金と時間をかけている。

___ブラジルでは、ボサノバに日本の「音頭」を感じたそうですね。
 
 日本の「音頭」こそ、最高にハッピーなリズムなんです。ブラジル人もアメリカ人も、こうなりたいんです。だけどなれないんです。奴隷として黒人を連れてきたというところから出てきた「ジャズ」や「サンバ」というは、精神的に悲しい世界なんです。
 日本人はハッピーな民族ですから、音楽的には恵まれちゃってる。「音頭」は、神様を天から呼んで、神様に捧げる音楽なんです。それを僕らは先天的に持っている訳ですから、これからは、もう一度邦楽を真面目に聴いてジャズに取り入れたり、海外の方には勉強してもらいたいですね。

___菅野さんは、『リンゴ追分』など日本の曲も題材になさっています。

 みんなリクエストです。イントロでは初めて『君が代』を演りましたが、途中で分からなくなっちゃった。(笑)それでも、あの『君が代』はバブルが始まる前の時代をもろに表現していると思いますよ。大混乱のドキュメントです。

音楽は人の心の動きですから、
方眼紙には絶対に書けないんです。


___「音頭」の良さを音楽的に言えば、やはりリズムでしょうか?

 僕たちは当たり前のように譜面を見て演奏して、リズムも数が割り切れるようになっていますが、音楽は人の心の動きですから、方眼紙には絶対に書けないんです。
 一番最初の音楽は、おそらくアフリカで、敵が攻めてくるというので大きな楽器が始まったんでしょうね。素敵な人が来るのなら大慌てしない。不幸なことに部族同士で対立するので、敵が来るから「ドン♪」と知らせた。それに応えて「ドンドンドン♪」と返した。要するに「掛け合い」なんです。相手の音を聴いて、それに返す。
 それが、西洋では最初から譜面で「ドンドンドン♪」と重ねてしまう。それは皇帝の凱旋のための音楽で、ゴマスリみたいなものです。西洋音楽は、不幸にして、そうやって発展してきた。譜面やレコードが出来たことで音楽が広まったというのは良いことではあるのですが、軍隊式に同じように音を重ねていくというのは音楽ではないと思います。
 本当の音楽は、一対一の掛け合いから始まるんです。敵が攻めて来るにしろ、愛を語り合うにしろ、相手が音を出している時に音を出してしまったら、これは音楽にはならない。人はそれぞれ違うから、重なる訳がないんです。それを、練習して一緒に「ドン♪」と演らなきゃならないとなると、これは音楽にはならない。そのような教え方で、そのような音楽ばかりになって、音楽はどんどん悪くなっていった。だから僕は、最初から音楽をやり直そうと言っているんです。
 ジャズの場合はクラシックという手法のお手本があったものだから、それをなぞって酷い世界に入っていった。ジョン・コルトレーンやオーネット・ コールマンは、抽象的で非常に難しい音楽になってしまった。僕もその最中にいたけれど、これは違うと思ってやめちゃった。

___違和感を感じられたのですね。

 ジャズを初めて演奏したのは、松岡直也さんのお姉さんのスタジオで、バンドの練習をした時です。その時に「え?!」と思った。皆で一斉に音を出したら意味ないじゃないか、って。ジャズってこんなにイカさない音楽なのかと思った。最初から僕は疑問があった。
 朝から晩まで、音を重ねて、同じことを演る練習をする。それは音楽の勉強とは関係ないところなんです。クラシックではそういうことがとても多い。一人一人は才能豊かでも、同じことを大きな音で、ゴージャスに聴こえる為に寸分の狂いもなく演奏する。
 だって、あなたの場所に僕は入ることが出来ない訳ですから、一緒に音を出しているつもりでも、それはシミュレーションなんです。見えないが故に、あたかも重なったものが音楽だと思っている。
 最高の音楽というのはドキュメントなんです。それ以外は商業意識があるから上手く見せようと思ったり、何回も練習して人前で学芸会です。そんなことに音楽的な価値なんてある訳がない。
 大きなことを言うようですが。。(笑)
(つづく)



18:00:00 | milkyshadows | |

"Just Keep Playing !"

私は、
ものごころつく前からオンガクが大好きでした。

まだ一人では歩けない頃から、おじいちゃんの背中で、
小田原の5月のパレードの時には、 ズンズンとリズムを踏みしめていたそうです。

カセットテープもまだ無い時代で、
父が持っていたのは、
ポータブルのレコードプレーヤーと、オープンリールのテープレコーダーでした。

目の前で、装置が回転して音が出ることが、
幼心にも、生々しくユーモラスで、
私にとっては、
「オンガク」というより、「録音された音」そのものが、
城址公園の梅子さん以上のアイドルだったように思います。

思春期の頃の私の最大のアイドルは、
父の影響で、ビートルズでした。
もちろん、リアルタイムではありませんでしたが、
オンガクが音楽以上の力を持つことを、
私はビートルズから学びました。

その後、紆余曲折ありましたが、
ある学生時代の終わりの夏に、
ひとりのアメリカ人ミュージシャンの演奏に感動して、
東京中のライブハウスを追いかけたことがありました。

そのミュージシャンは、
リチャード・ティーというキーボード・プレーヤーで、
この番組のオープニングとエンディングに流れている曲のフェンダーローズは、
彼の演奏です。

その夏、
ある場所で、演奏を終えて帰って行く彼に、
私は、勇気を出して声をかけたことがありました。

「あなたの演奏が大好きなんです」
と、片言の英語で話しかけると、
彼はいつもの人懐っこい笑顔で、
でも、ちょっとはにかんで、
握手をしてくれました。

その彼の腕の太さと言ったら、
それこそ私のウエストくらいはありそうなほど逞しくて、
これでピアノを弾いたら、そりゃぁ鳴るだろうなぁと思ったものです。

 「私も少しピアノを弾くんです」

 「へぇ、どのくらいやっているんだい?」

 「10年くらいです」

 「そうか、俺は40年やってるよ。
  やっとピアノが少し分かってきたところだよ」

彼はそう言って、一瞬真剣な目をしました。

 「私に何かアドバイスをいただけませんか?」

 「OK」

そして、彼は一言だけ私にメッセージを残して、去って行ったのです。
彼のメッセージは、こんな言葉でした。

 「Just Keep Playing!」

その後、
リチャード・ティーは、1993年に、残念ながら亡くなってしまいました。
私は、結局、彼のアドバイスは実行できませんでした。
音楽は大好きですが、
どうも私は演奏家には向いていなかったようです。

「とにかく続けなさい」という彼の言葉。

私は演奏家にはなれませんでしたが、
今もこうしてオンガクの隣にいて、
ずっとずっと愛し続けて行くことでしょう。


17:50:00 | milkyshadows | |

14 October

自然から教わること

artist file "tanebito" #08 [4/4] 
安藤 和夫 さん(創作家具 / 安藤工房

僕は頭デッカチでスタートして、
ようやく自然から教わるバランスの方が増えてきました。


 日本は、「手」の文化だと思います。「器物百年を経て精霊を宿す」という言葉があるように、手で使い込んでいくことによって物を育てる。手で磨き出していく。器物を100年使い込むことで、確実に別のステージのものになっていくんです。だからこそ、作る側は心して作らないといけない。

___そうやって「木」を見ていくと、語りかけてくるような気がします。

 だから、二度と同じものが無いんです。
 木の材質の違いはデータとしてはありますが、人間が二人として同じ人がいないように、二本として同じ木はないんです。同じ楢の木でも北と南では違うし、その木が育った環境によって、いつまでも狂いが抜けない木もある。
 「木が狂う」という言い方がありますが、それは木が狂うのではなくて、作った人間の予想が裏切られたから木のせいにして「狂った」と言っているんです。木は自然の原理原則に則って正確に動いただけのことで、狂ったのは人間の方なんです。

___それは地球環境の問題にも言えますね。

 その通りですね。環境問題については、人間が無茶をしてインパクトを与えていることは確かです。
 けれどもっと大きな視点から見れば、これが自然なんだという意見もある。そう言ってしまうと、何もしないで良いのでは、となってしまうので採用しないようにしていますが。(笑)
 でも、やっぱり原子力は止した方が良いですよね、どう考えても。コントロール出来ると思う方が傲慢です。想定しても対処出来ないのが人間なのに、想定外などと言われても困るよね。(笑)

___そう考えると、いろいろな意味で謙虚にならざるを得ませんね。

 そうですね。木を毎日触っていられる仕事はありがたいことです。
 僕は思想信条から始まって、自分探しをして、ものづくりの道へ入った。頭デッカチでスタートして、ようやく自然から教わるバランスの方が増えてきました。


人間の自然観なんて、大したものじゃない。
「自然」と言いながら、相当に不自然なことをしているんです。


 木は、丸く生えているものですよね。それを平らに削ってテーブルにしたりする。僕たちが見ている木目というのは、いわば断面なんですね。断面を撫で擦って「木は良いね」などと言っている。これは人間に置き換えたら相当怖い。例えば、腕の断面を切って「あぁ、血管のありどころが良いね」とか、そういうことをしているんです。(笑) 
 人間の自然観なんて、大したものじゃない。「自然」と言いながら、相当に不自然なことをしているんです。木は「そっとしておいて欲しかった」と言っているかもしれない。
 とは言え、そこは、人間が最低限の量の仕事をすれば良い。量的には最低限、質的には最高の仕事です。ひとつひとつのものを丹誠込めて、未来に対する届け物のようなつもりで作ってゆく。
 だから僕は、個人の為だけに作るのではなくて、その先にあるものの為に作っているんです。

日本の国土や風土が持っている潜在的な力はとても大きい。
放っておけば草で覆われてしまう国なんて、そうそうある訳じゃない。


___今の社会は、何かにつけ過剰になっています。木を使って作品をつくるためには木を切らなくてはいけませんが、適正な分量というのはどう判断していったら良いでしょうか?

 日本の国土や風土が持っている潜在的な力はとても大きい。そのことを、もっと知るべきなのでしょう。それを知ったうえでないと、適切な量というのは出てこないと思います。
 だって僕たちの国では、お百姓さんの仕事の何割かは雑草を取ることなんです。雑草だって命ですから、大地にあらかじめ力があるということなんです。放っておけば草で覆われてしまう国なんて、そうそうある訳じゃない。外国では、大変な思いをして土を作ることから始めて砂漠の緑化をしたりしている。
 こんな豊かな自然背景を持っている国ですから、 自給自足が基本だと思うんです。 それが出来る国なのに、今、僕たちは、どこから来たか素性の分からない食べ物を食べたりしています。それも、国を越えている。食糧の自給率のこれほど低い国は無いくらいです。しかもそれは、そうせざるを得なかったのではなくて、国策としてそうして来た。これはヤバいと僕は思う。
 世界的な貿易の均衡の中で必要のないものを無理やり買わされたり、商取引きの為の経済操作が主になっている。輸入ありきでの結果、 安く手に入ってしまって仕方ないからそれを食べている。
 僕たち日本人は「本当に必要なものを食べようとしているのか?」ということさえも、今まで自分たちで積極的に考えたことがないのではないかと思うんです。 お国にあてがわれたり、テレビのご託宣を文化だと思ってきた。制度もそう。食べ物もそう。 「どういう生活をしたいのか? どうやって暮らしたいのか?」というビジョンを作らなくちゃいけない。
 衣食住のうち食べることは分かりやすい部分なので、まずは自給のための必要量を把握して保証することから始めて、それから他のものへ拡大して行ったら良いと思います。それぞれの職業の人がそれをやってくれたら良いと思うんです。
 人類の歴史の中で、お腹がいっぱいになった時代なんて今が初めてなんです。だとしたら、もう少し高邁なことを考えても良いんじゃないかな。(笑)
 そういう時代なのかな。

思想はどこにあるのかと言ったら、
それを僕たちは作らなきゃいけない。


 例えば、日本で消費するコットンの99.9%は輸入しています。でも、日本で人件費をかけてオーガニックのコットンを作ったら、Tシャツが何万円の値段になってしまう。そうすると、いきなり自給へ転換することは無理だとしても、アイデアとして思想があるのなら、僕は可能だと思っています。そのための思想はどこにあるのかと言ったら、それを僕たちは作らなきゃいけない。
 「自分は何を食べたいのだろう?」「何を着たいのだろう?」「どういう所に住みたいのだろう?」「どういう生活が良いと思うのか?」「どういうコミュニケーションがありがたいと思うのか?」そういうことを一人一人が考えていかないと、必要な形が提案出来ないと思うんです。
 何の職業を択ぼうが、一人では生きていけないのが人間です。そうすると、自分が思うことがあっても社会の側にシステムが用意されていないと、結局、居場所がなくなるんです。その時にどうするのか、ということなんです。戦うのか、力を持って革命を起こすのか、あるいは逃げ出してコミューンをつくるのか。アメリカくらい広いと、砂漠の真ん中で自分たちのコミュニティをつくっても成り立ちますが、日本は狭いので、そうも行かない。
 「コミュニティの再生」ということがよく言われますが、そう言われて田舎に帰れるかと言ったら、みんなコミュニティのしがらみが嫌で都会に出て来た訳なんです。同質性を前提として、異質なものを受け入れないのが日本の農村社会だったんです。これは、世界に出たら通用しない考え方ですよね。アメリカの凄いところは、最初から他者を前提として国をつくろうとしているところでしょう。では、対案をして何を持ってくるのかということになりますが、急にまた疑似「村」をつくってもダメなんです。
 コミュニティには、具体的な経済圏などを一にする「エリアコミュニティ」と、関心事で繋がる「テーマコミュニティ」とがあります。昔は、エリアとテーマが一致していた。現代では、ひとつの地域に住みながらも、経済圏もテーマもバラバラな社会です。だから、両方を上手に考えていかないといけない。他者を前提をするということは、自分が考えもしないような思想や生き方を内包していけるような想像力をどれだけ持てるか、ということなんだと思うんです。日本の国は、想像力がなさ過ぎですよね。異質なものが怖いから排除する。だから崩壊し始めているんです。豊かさとは何なのか、という概念が間違っているんでしょうね。

「稲作」は、大きな側面を持っていると思います。


 「稲作」は、大きな側面を持っていると思います。
 今まで「保守」という考え方でここまでの国が出来てきましたが、それはさっき言ったように、潜在的に大地の力があったからなんです。そうすると、日本という国をつくるときに、圧倒的な大きさで「稲作」というものがベースにあるということが分かる訳です。
 僕が稲作の時間割を自分の体の中に入れよてみようと思ったのは、それが知りたかったからなんです。
木を使う仕事をして、自然のことをしゃべることは出来ても、自分の中は近代西洋の時間割のまま生きていたんです。だから、畑ではなくて稲作をやりたかった。畑は一人でも出来るし、プランターでも出来る。植物を育てることと稲作は全く違う。そうして稲作をやり始めて8年目になります。
 縄文時代は稲作をやっていなくて狩猟採集の生活で、弥生時代になって稲作が入ったと言われていますが、重要なことは、縄文以前の古い時代には他殺体が出ていないそうなんです。稲作以降、他殺体が出てくる。なぜかと言うと、狩猟採集の時代は人が獲物を求めて移動していくので、テリトリーという意識がそれほど大きくないんです。みんなが共有する財産として自然があった。もちろん、シビアにならなくても生きていけるほど自然が潤沢だったこともあるでしょう。それが稲作へ移行していくと、これは「今撒いた種が何ヶ月後かに収穫される」というような抽象的な概念を信じなくては出来ない訳なんです。約束事をみんなが守って、「ここは私が植えた所です」とお互いに認めあうことの出来る、発展した社会でなければあり得ないことです。同時にそれは、大地に線を引くことになっていく。結果、戦いを生んでいく。
 僕は農業や稲作自体を否定したくはないのですが、稲作がテリトリーという概念を生んだとすると、それを全面的に受け入れて良いものか迷っています。これから先は、みんなが腑に落ちる形で、人と人とが高度に保証し合って契約を結んでいけるような時代を、どうやって提案し実現していけるのかということになるだろうと思います。

___「高度な約束事」とは、どういうビジョンなのでしょう?

 例えば、人によってご飯を食べる量は違いますから、社会主義的に一人当たり一合の配給というようなやり方では生産意欲が湧いてこないと思うんです。その対案として、みんなが平等に暮らしていくための分配の仕方と、社会を成り立たせていくための所有のあり方というものを、かなり高度に綿密に想像しないといけないだろうと思います。
 具体的なビジョンはありませんが、少なくとも、「所有」という概念は相当取り払って「共有」ということにしていかなくてはならないでしょうね。でも、自分だけの大切なものはある訳ですから、それを無視する訳にはいかないでしょう。
 そんなことが人間に出来るかどうか分かりませんが、アイデアは出していかなくてはいけないと思っています。


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