Archive for 25 November 2007

25 November

完全なる受容

artist file "tanebito" #10 [3/3] 
小笠原 和葉 さん(ボディワーカー / Effleurage

エサレンは、本当にすべてを受容するんです。
「完全なる受容」ということです。


___『エサレン研究所』へは、いつ行かれたんですか?

 2005年の2月です。良い所でした。私にとっては心の故郷ですね。

___ビッグ・サーという海沿いの村だそうですね。

 もともとネイティブ・アメリカンのパワー・スポットだったみたいですね。エサレン族の人たちが住んでいたそうです。

___温泉が出る。

 温泉なんですよ!
 崖の上に露天風呂のようになっていて、目の前に広がる海を見下ろせるようになっているんです。外と内にお風呂があって、その横にマッサージ・テーブルが並んでいてボディワークを受けられるんです。

___『エサレン研究所』とは、何を研究している所なのですか?

 自己啓発や人間能力の開発などを研究していたようです。知性の可能性を開いていく面で、体に働きかけることが大きく作用する、体から開いていった方が早いということで、体からの働きかけ/ボディワークが発展していったということです。

___エサレンのことを知ったのは、どういう経緯でしたか?

 ヨガをやっているうちに、そういうことに興味を持ってやっている人たちがいたんです。ボディワークについて調べていた時で、手技としてはとてもシンプルなのですが、エサレンの姿勢や哲学に打たれまして。

___どのようなところに共感なさったのですか?

 エサレンは、本当にすべてを受容するんです。「完全なる受容」ということです。
 マッサージに行く時に、受け手は肩凝りを治したいという思いがあって、セラピストの側もそれを解消させてあげたいという思いがある。でもエサレンでは、自分の体の感覚や感じていることを触れられることによってもう一度見つめてみよう、とする。
 「凝りがある」とセラピストが判断したら、それは受け手にとってネガティブなことになるんです。そんな風に判断され続けることが、日常生活には溢れています。それを、判断しないであるがままの状態を受け容れて、その人が自分の「本当」を感じられるように、皮膚感覚を使ってサポートする。

全身の統一感を得る。
そうして、魂との一体感を思いだして行くということなんです。


 肩の凝りを、肩の筋肉に働きかけて解消するというような、頭・肩・胴体を分けるアプローチではなくて、全身に繋がっている部分としての肩に触れるという感じで、全身の統一感を得る。そうして全身を満遍なく感じて、そこに判断/ジャッジをしないことによって、魂との一体感を思いだして行くということなんです。
 エサレンでは、従来のマッサージ等のような、例えば「背中のストロークを何回やって、その後右手に移って左手に移って」というようなアプローチをしないんです。一番特徴的なのものは[足先→お尻→背中→肩→指先]を1つのストロークでゆっくり繋いでいく「ロングストローク」という手技で、統合感を感じることが出来ます。それ以外は特に決まった手順というものは無くて、もちろん細かいことも習いますが、スタンスだけをトレーニングされるという感じです。
 手技が厳格に決まっていないので、プラクティショナー(施術者)によって色があるんです。鍼灸をやっている人だったら鍼灸の知識を使ったアプローチをしていくだろうし、グーッと筋肉に入って行くアプローチが好きな人もいるだろうし、私はクラニオセイクラルやレイキなど軽いタッチのものをやっていますので、あまり強く揉み込んだりせずに、開くのを待つという感じのワークになっています。

___エサレンに行ったのはクラニオセイクラルを学んだ後だったのですか?

 そうです。並行して学んでいました。国内でトレーニングして、最終的にエサレン研究所へ行くんです。その後、規定のセッションレポートを提出して認定されます。

___どのくらい滞在されたのですか?

 10日くらいですね。

___世界中からやって来るのですか?

 アメリカ人がやはり多いですね。敷地がものすごく広いんです。森があって、セミナーハウスがいくつもあって、宿泊棟があって、食堂があって、お風呂があって。エサレン®ボディーワークだけではなくて、芸術に関するものや、ダンスや、ヨガなど、いろいろなセミナーやワークショップをやっているんです。

___やはり、「アート」なども「ボディ」の視点からの「アートセラピー」なのでしょうか?

 芸術活動もひとつの表現ですから、人間の可能性ということでしょうか。絵を描く「技術を学ぶ」というよりは、「自分らしく描く」ということはどういうことなのか、というような内容です。

自分の体が、どうしたら良いか快・不快という感覚で分かっているので、
そこへもっと耳を傾けていただけると良いですね。


 練習の後に輪になって、「どういうことを感じた」とかシェアをするんです。でも、それに対して誰も何も言わないんです。100%聴いて受容する、という練習なんです。
 「私はこういうことに自信がないと思いました」と言うと、「いえ、そんなことなくて、あなたはこれこれが良いよ」と言いたくなるんですけど、それをしないんです。その人の為に言うんだけど、それはある意味、自分のジャッジであり、そこで役割や関係性を作ってしまうことになる。
 何も言われないことによって、本当に言いたいことを言うようになって行くんです。そこにあることしか言わないようになって行く。受容されることで自分が開いていくことが出来る。どんどん開いていって、そのことによって自分を受容する。そうしたことを体で理解していく。そのことで、他人を受容出来るようになっていくというプロセスなんです。

___体で理解していく。。

 体も開いていきますから。

___たしかに体に意識が向いて行くと、日常生活で体験していることと体の感覚とは相似していることに気づいてきます。

 それを教えてくれて、そういう場を作ってくれた先生たちは本当に素晴らしい人達でした。

___肉体感覚ってスゴイですね。

 それをちゃんと拾い上げてあげるには、ちゃんと聴いていないといけないんですよね。
 よくセッションを終わった後に、「私の体、どうでしたか?」とお聞きになる方がいらっしゃいます。そういう方は、すごく多いんです。もちろん私はたくさんの方に触れさせていただいているので、いろいろ感じることはあるのでアドバイスをすることもあるのですが、でも、そういうことは私が言わないまでも自分の体が感じていて、そのためにどうしたら良いかということも快・不快という感覚で分かっていると思うので、それは私の声よりもインテリジェンスのあるものですから、そこへもっと耳を傾けていただけると良いですね。

小さい頃から病弱だったんです。
健康になったという単純なことではなくて、
自分の人生を取り戻したという感じでした。


___「体への視点」という興味はどういうことから始まったのですか?

 小さい頃から病弱だったんです。祖母が薬剤師で、薬もたくさん飲まされていて、「症状が出る→薬を飲む→病院へ行く」ということを繰り返していました。大学院で研究をしている頃にストレスがひどくなって、ストレスが溜まっていることにも気づかなかったのですが、アトピーやアレルギーの症状がワァーっと出てコントロール出来なくなったんです。それで、お医者さんにもたくさん行ったし、民間療法もたくさん調べてたくさん試したのですが、悪くなる一方で全然良くならなかった。そうして、体は自分のコントロール出来ないものだと思い込んでいったんですね。体はお医者さんのもので、自分ではどうしようもない、って。
 「体がこんなだから、あれが出来ない、これが出来ない」と、体と敵対してどんどん対立が深まっていった。アトピーが本当にひどくなって会社を休職する頃には、息をするのも皮膚が伸び縮みするので痛かった。それで「息していないや」って気づいた。とりあえず息をしなきゃ、と思ってヨガに行ったんです。
 ヨガをやっているうちに、ある時シャバーサナで横になっている時に体との一体感を感じたんです。「指先まで自分のものだ!」という感覚が、初めてと思えるくらい強くセンセーショナルに感じたんです。「あ、体はお医者さんのものじゃなくて、自分のものだったのかも知れない」って気づいたところから、グッと良くなっていったんです。病院に行かなくても、何かを飲んだり塗ったりしなくても、気づいたことによってどんどん変わっていった。
 それから、体と心の繋がりって凄いんじゃないかなと思い始めて、ボディワークにも興味を持ち始めたんです。いろいろなセッションを重ねたり自分でも勉強するようになってから、より体と心の結びつきを感じて、和解していきました。〔笑〕

___それを今度は人に施してらっしゃる。

 自分が変わっていった体験がとてもセンセーショナルで、「何かを取り戻していった」という感じがしたんです。
 健康になったという単純なことではなくて、それによって自分の気持ちや要求を取り戻したんです。「こういうものが好きで、こういうのものが嫌いで、だからこういう時にストレスを感じるんだ」という感覚を取り戻すことで、自分の人生を取り戻したという感じでした。
 そういうことが苦しくて出来なくて、ストレスで体を壊している方がとても多くいらっしゃる。そういう方は、私がそうだったように「体はコントロール出来ない」「心もコントロールが効かない」と思ってらっしゃる。心と体が乖離してしまって戻れないと思ってしまっている。
 でも、気づきさえすればすごく簡単なことなんだということを、自分の体験があるので、そういう方たちに是非気づいていただきたいと思っています。

___一度来た道、ということですね。

 本当にそう思いますね。〔笑〕誰でもそこから抜け出たり、取り戻したり、思い出したりするチャンスがあるんです。
 自己否定感が強くて「自信がない」と言う人が多いですが、本当にもったいないですね。触れていると、そうじゃないということを確実に感じるんです。「あなたの中にも光があって、体も魂もそれを知っている」って。それに気づくことは誰にでも出来ることなんです。

気をつけて心がけていることは、
ネガティブ/ポジティブというレッテル貼りをしないということでしょうか。


___そうしたプロセスに携わるうえで、変化や気づきに対しては「待つ」のですか?

 その手段がボディワークではない方もたくさんいると思いますし、まず重要なことは、自分自身もそのプロセスの途中であるということです。輝き方や開き方も人それぞれだと思いますので、私の設定するゴールにその人を連れて行くことには何の意味もないんです。
 私が常にその方を100%受け容れること、その方の健全性に100%気づいていること、そして確信していることだけが出来ることであり、それが一番大事なことだと思っています。

___とは言え、何らかの「意図」を100%排除することは出来ないと思います。「意図/インテンション」についてはどうお考えですか?

 気をつけて心がけていることは、ネガティブな面にフォーカスしないということです。あるいは、ネガティブ/ポジティブというレッテル貼りをしないということでしょうか。
 常日頃の反応として、何か目に入ってくるもの聞こえるものについて,良い悪いを判断して処理して取り組んでいく、ということを誰でもしていると思います。でも、その良い悪いの判断はマインドが行っていることで、客観的な良い悪いがある訳ではないんですね。「赤がキレイ」と思っても、「赤」が「キレイ」という質を持っている訳ではなくて、マインドが勝手にそう思っているだけですよね。「体が硬いんです」とおっしゃる方がいますが、それは「硬いという状態」があるだけです。それを「悪い」と思った瞬間に、ネガティブなことになってしまう。「ここが滞っているから流さなくては」というのは、クライアントさんの中にネガティブさを見つけて、そこにネガティブというレッテルを貼ることになります。それを、外側からしない、ということです。クライアントさんの中にあるものやその表現というのは、ただ在るだけで、良い悪いは私が決めることではないんです。
 クラニオセイクラルでは体の中に語りかけることをしますが、こちらがネガティブだと思えば、それに対して体もネガティブなフィードバックがあるでしょう。ですから、それを絶対にしないで、ポジティブで健全な流れに気づいて行くことが、唯一のインテンションかも知れません。

___では、結果については本人にすべて委ねられているということでしょうか?

 そうですね。
 『もうひとりのあなた』というクラニオセイクラルの有名な本があります。施術をするようになって、あらためてその言葉が分かるようになりました。目の前に横たわる「あなた」に施術をすると言うよりは、その人の中にあって、その人をこの世に生まれさせて生かし続けている力や知性を感じるんです。それは、その人のマインドや性格や外見というものを越えた、奥深くの「もうひとりのあなた」と対話をするということです。「どこに行きたがっているんですか?」と。それに私は「気づいていますよ」と光を当て続けるんです。そのことによって、その健全性をもっと表現してくれるんですね。
 留めているブロックにフォーカスしても、それは理由があってそこにあるので、取り去ろうとしても、体は操作されていると感じるんです。そうではなくて、健全性にフォーカスすることで、体は表現してくれる。
 お母さんが子どもの話を聴く時に、「こういうことを言って欲しい」と聴いている訳じゃないと思います。その子のしゃべりたいという気持ちに応えて聴いてあげている。聴いてくれることが分かると、その子はもっと表現してくる。本当のことを言い始める。そういうプロセスと一緒ではないでしょうか。
 これを引き出したいという意図は、無いです。

自分がこれを楽しいと思うからには使命なのかな。(笑)
それに近づいているサインは「楽しい」ということなのではないでしょうか。


___なるほど。では、さらに先走って、その先はどのようなステップなのでしょうか?

 私が「生きている目的」と思うことは、自分の色を輝かせることだと思うんです。その光は自分のなかにある。
 いろいろなことを通して、「あぁ、私はこういうものが好きなんだ。こんな特技があるんだ。この部分は人に任せておけばいいんだ」などといろいろなことに気づいていく。そして、そのことに歓びや楽しみを見出していく。その過程の中で、自分が生まれ持って来た良さを世の中と分かち合っていくには、自分が元気で輝いて楽しくなくては出来ないですよね。犠牲的であったり、人からの要求でやり続けていたら、生まれ持った色とは違って、苦しいだけだったりすると思います。自分が楽しくて機嫌が良くて調子が良いことが一番の輝きで、それは結局、他人のためにも一番良いことだと思います。
 自分の色にもっと気づいて、それを輝かせていくようになりたい。自分が本当にやりたいと思うことをやりたいと思っています。それが「健全性」とか「輝き」ということだと思います。
 ゴールというよりは、その方が本当に自身の声や要求に気づいて、それに従って楽しく幸せに生きて欲しいということですね。

___ディープなお仕事ですが、疲れることはありませんか?

 外側から「何かを与えよう」とか「こういう風にしてあげよう」と思っていたら疲れると思います。もちろん、たくさんマッサージをしたり体の使い方が悪ければ、筋肉が疲れたり、どこかが痛くなったりすることはあるでしょうが、それは単に肉体的な疲れです。 気持ちにまかせてダンスしている時って、疲れないじゃないですか。楽しくて海で泳いでいる時って疲れないじゃないですか。〔笑〕そういう感じなんです。何かに乗って動いているような感じです。

___そうした作業に、何を感じてらっしゃるのですか? やはり「楽しい」からなさっているのですか?

 はい。楽しいですね。

___「使命感」のようなものはありますか?

 いえ。使命感というほどのものはないです。自分がこれを楽しいと思うからには使命なのかな、と思うくらいでしょうか。〔笑〕
 やっぱり、使命だとか、これをやると決めて生まれて来たことはあるだろうと思います。それに近づいているサインは「楽しい」ということなのではないでしょうか。


18:00:00 | milkyshadows | |

融けて なくなる


私は、11月の穏やかな空が大好きです。

晴れた日の太陽は、
部屋の奥まで差し込んで、
まろやかな陽だまりの中、
ぼんやりと、
光の肌触りにまどろむのが、大好きです。


海の見える窓だったら最高です。

水平線の右手には、
箱根から伊豆へと、山々が蒼く連なって、
白い雲たちが、
そこからちぎれるように流れてきては、
ゆっくりと、海の上で消えてゆく。

 「あぁ、そうか、、
  雲って、最後は消えてゆくんだ、、」

まるで、雲たちが、
どこまで遠くへ流れて行けるか、
穏やかな光と風を楽しんでいるような風景。

 「そういえば、
  こんなふうに雲を眺めることなんて、
  長い間、忘れていた、、」


思えば、
日々の暮らしで繰り返しているのは、
氷の塊を、
凍ったまま飲み込むような作業なのかも知れません。

塊は、
喉につかえ、胸につかえ、
お腹の底に沈殿して行く。
塊が、
いつかは解けることすら忘れて、
塊は、
意識の底に堆積して行く。

 「もう少し、穏やかな時間があれば、
  塊の大きさや冷たさを、
  味わうことだってできるのに、、」


そんなことを思いながら、
11月の雲の行方を、丁寧に見届けるのが、
私は好きです。


17:50:00 | milkyshadows | |