Archive for 02 September 2007

02 September

トータルな生と死を願って

artist file "tanebito" #07 [1/3] 
滝越 リクタ さん(ベリーダンサー,オーラソーマセラピスト / sacred temple

「神聖な寺院」

___リクタさんは、ベリーダンスだけでなく、ヒーリングの分野でも様々なワークやセッションを行っています。

 【Sacred Temple(セイクレッド・テンプル)】という名前で活動しています。「神聖な寺院」という意味です。
 ベリーダンスも、ワークショップも、オーラソーマのセッションも、全部、自分の身体を「神聖な寺院」として捉えることを軸にしたワークを行っています。

___「身体」にフォーカスしたワーク、ということでしょうか?

 オーラソーマのセッションでは直接身体に触れることはないですが、自分の小さな身体の中でいろいろな物語が起こっていたり、少しづつ「学び」をしていく過程で、「身体が在る」ということに気づくところから始めよう、ということです。
 まずは「今ココで自分と一緒に在る身体」を肯定して、畏敬の念を持って受け止める、ということから始めています。

___ワークショップは、どんな内容ですか?

 直近では、『セイクレッド・テンプル』として2日間のワークショップを女性限定で行いました。
 それはやはり、「今ココ」という瞬間に呼吸をしながら帰ってくる、それによって「身体がココに在る」という基本に帰る、というワークです。それを、ダンスや、自由に絵を描いたり、というようなことを通して2日間でシェアをしました。

旅の始まり


___キャリアの始まりは「オーラソーマ」だったそうですね。

 7年ほど前に、たまたま立ち読みした本で「オーラソーマ」に出逢って、なんとなく本を購入したことがキッカケでした。
 本の背表紙に「あなたの好きな色は何色ですか?」という質問があって、いくつか色のサンプルがあったんです。だけど、私がその時に好きだったのは「白」と「黒」だったんですね。その白と黒がサンプルの中に無かったことに衝撃を受けたんです。
 その時は、色がまったく見えていない世界に生きていたんですね。その後、よく分からないままにオーラソーマのセッションを受けたり、自分がセラピストになる為の勉強をしていく過程で、「色が世界にあったんだ!」って気づき始めた。きっと街にはそれまでも「色」があったハズなのですが、それが初めてちゃんと目に映ってくれるようになったんです。(笑)
 そんな中で、ある時たまたまインドネシア・バリ島の旅行パンフレットでウブドゥのライステラスの写真を見て、「あぁ、ここに住みたい」と思ったんです。それで、オーラソーマのボトルを全部持って、バリ島へ行きました。

___旅のスタートはバリ島だったんですね。

 そうなんです。バリ島にはそれまで「オーラソーマ」はまったく無くて、私が初めて導入したんです。
 ウブドゥの村で、ヒーラーが瞑想しながらマッサージをすることで有名な【ボディワークスセンター】という場所があって、そのヒーラーの方を訪ねて行きました。片言の英語で、「私はこういうことをやれるので、やらせてもらえませんか?」と言ったら、「ちょうど部屋が一つ空いているので自由に使いなさい」と驚くほどスムーズに受け入れて下さって、そこでお世話になりました。日本人の旅行者の方を相手にセッションをして、バリ島にいる時間を楽しむ、という感じでした。
 それで海外に滞在する感覚に慣れて、この数年はそれに惹かれて、日本に戻っては旅を繰り返すような生活です。

___旅は、今までどんな所へ行かれましたか?

 インドへは何度も行っています。5年ほど前に初めて行って以来、毎回どこへ行くかを決めないで、その時々で足が向いた方へ旅をしています。インドの人は、場所によって気候が違うからリズムや性格も違うのですが、とにかく一人一人がとてもユニークで、その瞬間々々に生きていて、固定概念では括れないですね。
 よく行くのはプーナというところで、外国の方が多く居て、楽器を持って来ていたり、好きなことをして過ごしているような所です。
 旅での一日一日は凄く大きな衝撃で、毎日が平手打ちを受けているように、何かが自分をクリックし続けている感じがします。その中で、今の仕事に繋がるような方向が出来て来たんだと思うんです。

トータルな生と死


___webサイトの自己紹介では、子どもの頃の初めての記憶のことについて書かれています。どんな体験でしたか?

 生きていることが、何か不思議な感覚だったんです。
 何かを体験したという訳ではないので、何を見逃しているのかハッキリ分かってはいないのですが、自分が認識している世界というのは全体の一部分だけで、そこだけを見て生きているような感覚がありました。友達といても、何かが違うような感覚がしていました。

___「生きること」にについて、その有機的な繋がりを本能的に感じていたのでしょうか?

 そうかも知れないですね。
 「生きる」ということと同じくらいの比重で、「死ぬ」ということがそこにあったような気がします。実際にそういう肉体的な危機に瀕していた訳ではないのですが、毎瞬がギリギリで、生きるんだったら本当に全部を味わい尽くして、死ぬときはバタンとトータルに死にたい、という思いがあったんだと思います。
 それが、子どもの頃は自分で把握できていなかったし、言葉にすることは難しかった。一人で崖の上に登って、「ワァー!」っと野生のような雄叫びをあげたりした記憶があります。(笑)何かがズレているんだけれど、それが何なのか全く自分でも分からないし、それを見ている周囲の人も訳が分からなかったと思います。
 大人になって旅をするようになってから、「あぁ、きっとこういうことを私は求めていたんだ」と、パズルが一気に合わさって、ストンと腑に落ちるようになってきました。
(つづく)



18:00:00 | milkyshadows | |

存在を祝福する舞い


bellydance / rikta  photo / motoka

少し前の話ですが、
6月の終わりに、ある写真展を観に行きました。

東京お台場で、
「ノマディック美術館」と呼ばれるコンテナを積んだ移動式の特設会場を設けて行われていた、
グレゴリー・コルベールというカメラマンの『ashes and snow』という展示です。

ひざまずく象の前で、祈るように本を読む少年のポスターは、
写真展には行かなくても、どこかで見かけた方が多いのではないでしょうか。

 「動物が自然に生息する場所で
  人間と交流する姿をとらえることによって、
  動物が持っている詩的な感性を探ろうとする」

そこで観たショートムービーは、
動物たちと人間とが、まったく対等に、ダンスをする映像でした。

 滑るように飛ぶ ハヤブサの大きく開いた翼。
 水場で 雨のようにしぶきをあげる アジアゾウの長い鼻。
 その動物たちの営みの傍らで踊るダンサー。

私たち人間にとって、
彼らと対等に向かい合う為には、
ただ一枚の衣だけを身に纏い、
ただ心だけを開き、
ただ流れのままに 踊ることしか 出来ないのではないか。

  すべての繋がりの中で、
  今ココ に在る、ということ。
  その存在を祝福すること。

コルベールの映像の ダンサーの踊りは、
自らの存在を祝福する舞いに、私には見えたのです。

その、
羽のような踊りが神々しいほど美しくて、
魂の底から、私は揺さぶられたのでした。




17:50:00 | milkyshadows | |