Archive for 30 September 2007

30 September

時代をつくる骨格

artist file "tanebito" #08 [2/4] 
安藤 和夫 さん(創作家具 / 安藤工房

僕は「作家」とか「職人」とか未整理なままなんです。
これから答えを出していかなきゃいけない。


___安藤さんは、クライアントさんの依頼で家具を製作なさっているのですね。

 今、僕はふたつの役割を演じています。
 ひとつは「注文家具屋」という側面。でも、「注文家具屋」ということだけだと、どうしても欲求不満になってくるんです。納期の問題、趣味の問題、いろいろことが制約になる。その部分を、僕からの提案ということにして、そこを「作家」として時間割を作っています。それは、自己表現/自己発言の為にやっているので、売れようが売れまいが関係ない。そんな風に、自分の中で役割分担をして二重人格をつくっています。(笑)
 去年、初めて個展をやったので、僕は「作家」とか「職人」とか未整理なままなんです。これから答えを出していかなきゃいけない。
 修行中は、すぐにでも個展をやるようなスタイルにしたいと思っていたんです。でも「作家」として作品を出していくことに疑問があって、その疑問を整理するために「注文家具屋」として生きていこうと思った。たった一人で社会を相手にして行くというのが「作家」だとしたら、そうではなくて社会の中の「構成員」として暮らしていく、家具を作る技術を持った一社会人としてエリアの中に埋没して行くということでも良いな、と思ったんです。それは、例えばお客さんの「こんな機能が欲しい」とか「こんな棚が欲しい」というような要望を、プロとして、プロの技術でそれを実現してあげる。そういうことを仕事にしてきました。

クライアントと僕とは、共同製作だと思っています。
それは、「未来」に対しての共同製作です。


___その為には、クライアントさんとの間に、かなり濃密なコミュニケーションが必要ですね。

 そうです。相当な想像力が必要ですね。
 お客さんはプロではないですから、100%の要望は言えていないと思うんです。完成して納めた家具がお客さまの「思った通り」だったとしたら、その人は満足しないんです。思ったものを越えなきゃダメ。要望を越えた時に、初めてお客さんは手放しで喜ぶんですね。そうするとお客さんは感動して、過呼吸になるのが分かる。(笑)
 その為には、その人の持っている経済力、センス、なりたいであろう所、そこまで読み取った上で、かなり想像しなきゃいけない。判断しなきゃいけない。そうすると、当然だけど、よく勉強しなきゃいけない。少なくとも、僕に注文をくださったということは、戦いを挑んできたわけですから。(笑)
 過酷ですよね。

___クライアントとの戦いというのは、やはりチャレンジングですか?

 それはクライアントに対してのチャレンジではなくて、「時代」に対してのチャレンジですね。
 クライアントと僕とは、共同製作だと思っています。それは、「未来」に対しての共同製作です。「この時代が作った」という骨格のものが作れたら良いと思うんです。
 「何がこの時代なのか?」と自問自答しながら、それも学んでいく。そしてその答えは、学んだことを付け加えるのではなくて、削ぎ落として行った時に出て来るんだと思います。

朝鮮李朝の家具や焼物が好きなんです。
あの時代に生きていた人たちは、余程豊かな心を持っていたという気がする。
だとしたら、その豊かさこそ、自分のものにしたい。


 朝鮮李朝の家具や焼物が好きなんです。独特の歪みというか、ヘタウマの世界なんですね。今の日本人が作るのはもっとシャープで完璧な形ですが、どちらかと言うとひしゃげていたりする。最初、焼物はなんとなく惹かれていたのですが、家具は許せなかった。若くて、良さが分からなかった。「下手じゃん」って。(笑)
 若い頃、僕は上手でシャープなものが作れたんですが、魅力がなかった。そこの差ですよね。それが、自分なりの答えが見つかって来たんです。
 例えば、李朝の茶碗に、僕には許せない鈍い曲線があるとします。日本人は器用ですから、完成度の高いものを上手なものと思う節があるのですが、当時それで成り立っていたということは、作り手だけでなくて受け手がいた、ということなんです。つまり、その鈍い茶碗をお金を出して買って使った人達がいる、ということです。
 そこにどういう会話があったのかを想像すると、作る側は「まぁこのくらいでいいでしょ」「ここで終わっていいや」と思える人たちがいた。頼んだ側も「あぁ充分だよ」「それも良いね」と受け取ったんでしょう。現代人はどうかと言えば、作る側は「まだ私の線が出ないから待って下さい」とこねくり回したあげく、頼んだ側は「いや、これは違う」とか言って返してしまう。
 どちらの時代が良いかと考えた時に、僕はひとつの答えが見つかったんです。どう考えても、李朝の時代のゆったりとした空気感の方が、現代よりも豊かだったと思うんです。あの時代に生きていた人たちは、余程豊かな心を持っていたという気がする。
 だとしたら、その豊かさこそ、自分のものにしたいと考えたんです。普段から何を食べて何を楽しむか、李朝の時代に行ったような生活をして、そういうゆったりした時間割の中に自分を置いたらゆったりしたものが作れるのかな、と思った。向上心で切磋琢磨して、自分をキリキリと締め上げて、その中で出て来たものは良くも悪くも緊張感を漂わせてしまう。それを否定はしないけれど、僕の求めるものはそうではない。僕の作ったものを持ってくれた人が、「あぁ、ゆったりと豊かな気持ちになった」と言ってくれたら、それが理想なんです。

「もの」を作ることによって「もの」を否定して行くことを考えています。


 「もの」を作るということは、そのことによって生活にかなりの影響を与える。極端に言うと、生活を規定してしまう。どんなものが必要なのかを、作り手がプレゼンテーションする訳ですから。
 資本主義の社会では、「もの」をどんどん新しく作ることで欲望を喚起して、欲望までも作り出して経済をまわして行く。「引き算」は絶対にしない。それが今の時代。「引き算」であるはずの「エコ」ですら、「エコ」という着物を着せることで売れるから「足し算」に使われている。こんな時代に、もの作りで思想的に提案するとしたら、作ることを止めてしまうしか無い。(笑)
 そうもいかないので、パラドックスですが、「もの」を作ることによって「もの」を否定して行くことを考えています。
 絵でも音楽でも、芸術や表現はすべてそうですが、「もの」には先ず骨格があって、そこに豊かな肉がつく。そこに皮膚がついてお化粧をしたら、キレイなんです。ところが、今ほとんどの表現者がしていることは、お化粧の技術に精通することであったり、新しい装いの服を選ぶことに躍起になるばかりで、肉や骨格をきちんと作ることに届いている表現者は非常に少ない。僕は、お化粧をしなくても良い骨格を作りたい。家具の場合は、「構成」そのものです
 そういう最低限のミニマムな仕事に憧れていて、贅肉をどこまでも削ぎ落として、物理的にこれ以上削ったら倒れちゃうという所まで僕はやっちゃった。(笑)それは李朝の家具とは正反対にカミソリの刃のようで、人は怖くて触れない。構造的に限界まで行ったので、少し肉をつけても良いかな、と思い始めたのがここ数年のことです。本当はお化粧をしたくて仕方なかったのですが、その為にこそ、きちんとした骨格や健康な肌を作りさえすれば、粉を一掃けするだけでキレイになる。それが、僕にとっての「引き算」なんです。

僕は根源的な所へ戻って仕事をしたいと思う立場なので、
骨格がきちんと在った上での装飾が美しいと思っています。


 その時代やその国の風土によって、自然の見取り方って違うと思うんです。
 ギリシャ/ローマの時代、天と地を繋ぐものとして、彼らには大理石があったのでそれを柱頭として立てた。そこに屋根を乗せたら美しかった。人間はそこまで作るのに何世代もかかったはずだから、それは感動したと思うんです。そうすると、その柱と屋根の接地点には、大きなエネルギーが内在していることが見えただろうと思うんです。その時初めて、それを記念するため表現するために、その工人は(同時に彼は芸術家であり哲学者でありエンジニアであった訳ですが)そこに装飾を付け加えて行ったんです。その時代の柱頭飾りは、その時代の人たちが見たエネルギーの形なんだと僕は思います。純粋に力学的な形が最初にあって、そこに何らかの一筆が加わって装飾が興って行く。
 そういう風に、人間は何かを発見して自分のものにして行く。その上で、より豊かさをそこに付け加えて行く。そして発展して行く。発展して行くと何が起こるかと言うと、本来構造として必要だったことを忘れて装飾過多になって行って、癌細胞のように増殖して独立し始める。それが「バロック」という様式。
 いつの時代もそうですが、僕は根源的な所へ戻って仕事をしたいと思う立場なので、骨格がきちんと在った上での装飾が美しいと思っています。でも、怪しいものも大好きですが。(笑)
(つづく)


18:00:00 | milkyshadows | |

木のよしあしは実で決る


古今東西、優れた「叡智」というものは、
どうも、失われる運命のようです。

 古代エジプト、メソポタミア、 
 マヤ、アステカ、
 アトランティス、ムー、、

それらは何れも、
風に乗って運ばれたタネのように、
どこからかやって来て、文明として花を咲かせ、
そして、
時が来て、土に還った。



古代ムー大陸の末裔と伝えられているハワイには、
「カフナ」と呼ばれる、不思議な力を持つシャーマンがいて、
代々、秘教的な知識を受け継いできたそうです。

「カフナ」という言葉は、現代ではややゆがめられたイメージで受け止められているようですが、
本来は、
訓練を受けた達人、力と知識を管理し伝えていく専門家、を指すのだそうです。

 つまり、
 いわゆるサイキックな能力の者だけがカフナなのではなくて、
 彼らは、宗教的な指導者であったり、
 優れた芸術家や職人であったり、
 医者や法律家や、政の助言者であったりする。

けれど、
そのカフナたちのほとんどは、
歴史の中で、主に政治的な意図で 粛正されてしまったのだそうです。

 はたして、
 現代のカフナに、こんな言葉が残されているそうです。
  「木のよしあしは実で決る」

   〜『ハワイアン・ヒーリング―ポリネシアの癒しの智慧』より


「叡智」というものがタネに喩えられるとしたら、
かつての古代の文明も、
そのDNAの幾らかは、 タネのように風に乗り、
海を越え、時を越え、
今も芽吹きの大地を求め、運ばれているのではないでしょうか。

失われたのは、「叡智」というタネではなくて、
それを運ぶ風と、それが芽吹く土壌なのかも知れません。




17:50:00 | milkyshadows | |