Archive for 20 January 2008

20 January

「人」と「人間」

artist file "tanebito" #12 [3/4] 
MAX さん(ナチュラルヒーラー)

「人」は死なない。けれど、「人間」は死ぬ。
つまり「人」は殺されてしまった。


___今回の来日講演では、「死」についてのテーマでお話をなさっています。

 そういうつもりはなかったのですが、結果的にそういう話になることが多かったということです。
 前回は「宇宙」の話をしました。人が生きる場所としての「宇宙」は普遍的で、まちがいのないものですから、そこから話して行きました。今回は、人が生きる上で「死」というものが、誰にとっても大きなテーマとしてあると思ってお話した次第です。

___「人は死なない」ということをおっしゃっていました。

 いろいろな方たちとお会いして話をしていると、「人」と「人間」の違いに気づかなくなっている人が多いと感じました。
 今の問題、例えば日本の自殺者が世界一多い事や、地球温暖化もそうですし、親が子を殺したり子が親を殺したりというようなことは、急に最近起きたことではなくて、脈々と「人間」の中に起きてしまったことだと思うんです。
 それは、じゃぁどこから始まったのだろうか。限定はできませんが、日本で言えば弥生時代から起きてしまったのかな、と私は思います。社会が形成され、そこに遺産相続であったり、「死」が必要とされた。社会と人間の関係性を断ち、社会から葬り去る。つまり「人」は殺されてしまった。
 肉体を持つ「人」は死なない。そこに在る。けれど、「人間」は死ぬ訳なんです。「人」と「人間」の違いは何かと言うと、「間」がある、ということです。

___「関係性」ということでしょうか?

 「間」がそこにある、ということです。人同士でなくても良いんです。「人」と何かに「間」がある。それが「人間」なんです。「人」は、その人一人ですべてが完結する。その「人」がいるから、次に「人間」があるんです。それが分からなくなってきているように思いますね。
 だから、「自分を見失っている」という表現にしても良いでしょう。「人」として感じられなくなってきてしまっていて、常に「人間」として生きてしまっている。「人間」というものは実体がないんです。社会の中で「間」なんです。
 もちろん「人間」として生きることも大切です。そのために社会がある。ところが、その社会には実体がないんです。実体があるのは「人」なんです。「人」という生命が、そこにあるんです。
 要するに「間違い/カンチガイ」が起きてしまっている。
 今、人が思い悩んだり不安になったりしていることや、究極は地球温暖化であったり、すべてと言い切るつもりはないけれど、一人が抱えている問題、社会が抱えている問題、地球規模で抱えている問題の原因は、「人が死ぬ」というカンチガイから始まっていると感じたんです。

___「輪廻転生」という意味以上に、社会として「死」を定義してしまったことの問題点を指摘なさっている、と受け止めたら良いのでしょうか?

 いや。問題点だとも思っていないんです。社会として「死」を定義したのは、当たり前のことなんです。悪いことではないんです。

じゃぁ、今のように都会の中で生きるにはどうしたら良いかというと、
まず「一人で自然を感じる」ということです。


 今「輪廻転生」と言いましたが、それも言葉ありきで実体のないものなんです。もともと感じていたものを言葉に言い表したものなのだと思いますが、言葉の方が一人歩きして、実体のないものに踊らされている。無いものを考える、無いものを感じる、ということは無理な訳です。無いものを感じた気になってしまって、そこに実体のあるものに気づかなくなってしまっている。つまり「カン違い/カン・チガイ」。そんな感じがしますね。
 まず「人」ありき。まず自分なんだ、ということの本質、大切さ。それは当たり前のことなんですけど、それが感じられなくなってきてしまっている。感じる」ということは、その人の体以外では感じようがないんです。他人の眼でものを見ることは出来ないし、感じたことを他人と比較したり検証したりすることも出来ないんです。まず「人」が感じることが大切なんです。それが出来た時に、「人」と「人」との間に「共感性」というものが生じると思うんです。「人間」と「人間」の間では、「間」が多過ぎちゃう。それが「間違い/マ・チガイ」。(笑)

___その間違いは弥生時代から起きたとおっしゃいましたが、稲作の始まりが転機だったということでしょうか。

 稲作がいけないことではないんです。何が悪いということではない。そのことによって「人間」がカンチガイしてしまった、間違ってしまった、というだけのことだと思います。ただ、どこかにそうなりやすいことはあったかも知れませんね。
 自然の中に生きていた縄文時代には、自然に自生していたものを食べる生活形態だった訳で、計画生産はなかった。蓄えるということはなかったんです。蓄えると言うよりは、在るもの。この地球全部が蓄え、という感覚ですよね。ただ生えているものを、ただ採る。
 稲作というのは、稲があって、それを所有する人がいて、計画的に生産するために「効率」が生じて、役割分担から「階級」ができた。また、貯蓄できるので相続もできる。「所有」が生まれた。その区画に対しての所有権から「不動産」が生まれてしまった。そして、稲作のために自然に手を加えてしまった。
 稲作ということが、会社であったり、社会であったり、国家であったり、ということに近いかな。例えば、自動車会社が車を作るのは、お米を作るということが原点ですよね。そのシステムを、僕は否定しない。「人間」が幸福になるための制度であり「社会」であったんですから、良かったんです。けれど、まず「人」ありきだった筈が、「人」が無視されて「社会」が優先されてしまった。本と末が転倒してしまったんです。
 資本主義にしろ社会主義にしろ、賢人たちが幸福のために生み出した法ですから、それはどれでも良かった。ところが、それを運用する人たちが、「人」として生きないで「人間」として生きるようになってしまったから、おかしくなってしまった。間違ってしまったという訳なんです。
 縄文時代にそういうことが起きなかったのは、自然の中で自然と共に生きていたからなんだろうと思うんです。稲作となると、自然と分断されてしまいがちになるということです。じゃぁ、今のように都会の中で生きるにはどうしたら良いかというと、まず「一人で自然を感じる」ということです。

___一人で、、

 「感じる」ことは一人でしか出来ないんです。二人で行こうが何人で行こうが、「感じる」のは一人なんですよ。以前は、無意識に自然の中に生きていた訳ですよね。人は常に、人と関わろうとする傾向が強い。だから今は、少し意識的に「一人で自然を感じる」ようにするんです。

自然を感じることは難しいことではなくて、ただ見る、ただ聞く。
僕たちの体そのものが「自然」なんです。


 自然を感じることは難しいことではなくて、ただ見る、ただ聞く。聞こうとして聞かなくてもいろいろな音が聞こえるんです。僕たちの五感は、意識しようが意識しまいが勝手に動いてくれている。こうしているうちにも汗をかいたり、インシュリンが出たりしている。本当に、僕たちの体そのものが「自然」なんです。なのに「自然」を切り離し、感じなくなってきている。
 それで「どうしたら良いか?」と悩み始めた時に、また人がつくり出したものに翻弄されて頭で考えている。例えば、ヨガであるとか、ビーガン(菜食主義)であるとか、マクロビオテックであるとか。
 そうじゃないんです。一番欠けたのは「自然を感じる」ことなんです。とっても簡単なことなんです。お金もかからない。時間もかからない。ただ意識的に、素足で、手で、感じて欲しいということです。それは、意識的に行動を起こせば分かるということではなくて、まず「感じる」ことが大切なことなんです。

 具体的にいうと、例えば、眼で見ますよね。眼は、それを見たことで光の刺激を受けて、視床下部が働いて、神経組織のシナプスが熱を帯びて、という具合に、「感じる」ことで人の体には変化が生じるんです。自然から膨大な情報を受けるんです。この情報は生きて変化します。
 それを数値に表そうとしたのが科学者です。ニュートンは、林檎が落ちたことを、ただ見たんです。そして「何故落ちるんだ?」と考えた。そして観測して → 考えて → 理論を作って → 検証して、ということなんです。最初に、見た → 感じた、ということが大切なんです。そこが今の人たちは抜けているから、間違いが起きてしまった。そして、悩み始めてしまった。

土、川、水、海、何でも良いから「感じる」。
それを繰り返すことによって、その人の中で確実に変化する。
感じない人はいないんだから。


 僕たちは脳を使う。脳は素晴らしい機能なんですが、脳が暴走してしまった。脳が間違っちゃった。そして悩み始めた訳です。今、みなさんが悩んでいる。だから僕なんかに会いにくる。
 どういうことかと言うと、僕たちは脳があることを知識として知っています。でも見たことはありません。触れることもありません。ま、でも厳密に言えば、医学が進歩していますから、脳を切り開いて自分の脳を触ることも出来ます。それでも、見ることはちょっと難しいかな。(笑)
 月は、そこに見えて、あることは知っています。でも、厳密に言うと触れないんですよ。アポロ13号は実際に月まで行って、そこに立って触った人もいますけれど、彼は月を感じたでしょうか?
 無理なんですよ。月に触れたのは宇宙服なんです。彼は宇宙服にしか触れてないんです。人間は、そこまで行けても、結局は無理なんです。月に行けた気になっているけれど、行ってないんです。触ってもいないんです。
 だから、月は、見て、そこにあることを感じることはできても、知ることは出来ない。だけど、在ることは知っている。それは「実体」なんです。それが「脳」なんです。脳が「脳」としてある時は良かった。ところが「悩」み始めてしまった。
 「悩」という字は、「脳」の「月」が「忄(立心偏)」に変わってしまった。その「心」というものは、「死」のように実体が無いものなのに、人間が「心」と決めたことで訳が分からなくなってしまった。まだ平常心や安心のように落ち着いた「心」ならば良かったけれど、「忄」と立ってしまった。(笑)
 つまり、「脳」は実体があるんです。見て触ったりすることは出来ないけれど、そこに実体がある。ところが「心」は実体がないんですよ。だから悩んじゃった。悩んじゃった人が、今、さらに「心」を求めて心理学や催眠療法に行く。そうすると、さらに悩みが深くなってしまう。

 今、悩んでいる人たちは、宗教であったり、ヨガであったり、催眠療法であったり、と言うけれど、僕は人として会話をして、ただ僕の手を置くだけ。
 それ以上に、どなたにも常に言っていることは、「とにかく毎日、ちょっとでも良いから、意識的に、空を見て、星を見て、月を見て、そして宇宙を感じて、地球を感じて」ということです。土、川、水、海、何でも良いから「感じる」。それを繰り返すことによって、その人の中で確実に変化する。感じない人はいないんだから。(笑)
(つづく)




18:00:00 | milkyshadows | |

「真実の淵」


南の島の、
誰もいない波止場にゴロンと寝ころんで、
一晩中、星を見ていたことがあります。

 満天の星。
 天の川が、ぼやけた雲みたいに、
 星空を滲ませていた。


街に生まれ育った私にとって、
星の輝きの他に何も光るものが見えない夜なんて、
あの晩が最初で最後。

 「もしも、この瞬間に、
  背中の地面が消えて無くなったとしたら360°が星空なのに」

地平線を恨めしく思いながらも、
ただ一人宇宙に漂う自分を想像したら、
たまらない孤独感に襲われてきました。

大地に抱かれる安心に、我に返ると、
その暖かさに、
体中がまどろむように溶けて行くようでした。


私は、その時、
自分の一番内側の、
本当の真ん中をリアルに感じたような気がしています。

 そこに繋がってさえいれば、
 天も地も、前も後ろも、左も右も同じこと。
 絶対的な中心軸。

 それは、
 私に勇気と安心を与えてくれたけれど、
 同時に、
 私は孤独と恐怖を思い知らされました。


私の中心にある「真実の淵」は、
ぽっかり深くて、あまりにも遠く、
魂を連れ去るほどの、冷たい風が吹き上げてくる。

その中心をのぞき込むたびに、
私は、今も、
身動きがとれなくなるのです。



17:50:00 | milkyshadows | |