Archive for 30 March 2008

30 March

はじまりの春


1


何故私はここに来てしまうのだろう。回り道だってあるというのに。

早朝の暗闇の中に、ぼんやりと見える上り階段。ここを上れば学校まで程せずに着くが、暗い間は通りたくない。

左手に墓、右手に公園が望める。どうしても、私の想像力を不本意な方に掻き立てるのだ。
下から見える限りでは墓も公園も見えないのだが、突然開けてそれが現れる。
その不意打ちも、また嫌だった。

空は徐々に明るさを帯び始め、階段の上では街灯の灯が消えた。
私は、石段を1歩踏み出した。
きちんと段数を把握しているわけではないが、30段程の苔むした階段である。

少し上れば、墓と公園が見えてくる。
公園は中々の広さで、見下ろすような桜が数本、並んで咲いている。管理はされていないのか、雑草が生い茂っている。
遊具といってもブランコと鉄棒が取り残されたようにあるだけだ。子供が遊んでいるのも見ない。

遊具や墓が目の前にあることもあるだろうが、1番はこれだろうと考えている。
立ち並ぶ満開の桜に混じって、黒い大きな桜がある。魔女が手を振り上げてるような様だ。
黒い――というのは火によって焦げてしまったもので、木が死んでしまっているのかはわからないが、花を付けた所は見たことがない。

ここには、以前家が建っていたらしい。
不注意から火が起きて全焼し、沢山のものが燃えてしまった。
大きな桜と一緒に、大事な息子までもが犠牲になってしまった。
彼の家族は今、遠くで暮らしている。
しかし墓は、ここにあるのだそうだ。

黒い桜も、そこが家だった時には花を付け、家族の目を楽しませたことだろう。
今は蕾すら付けない。

私はいつものように階段を上っていた。
公園を通り過ぎて直ぐ。きい、と濁った高い金属音がした。背後でブランコが鳴ったのだ。
誰も居なかった筈だ。風だって、無風に近い。柄にもなく驚いて振り返る。

厚い雨雲を抱えた広い海が、静かに騒めいている。


2


風がけたたましく鳴っている。叫び声のように聞こえた。
昨夜から徐々に聞こえる勢力を強めている嵐は、のしかかるように重たい。

「こんな風じゃ歩けもしないんじゃない?」
質問ともわからないことを、母は言った。
「それなのに父さん大丈夫なの?」
「平気だって」
母は欠伸をしながら台所に消えた。もう夕飯時か。

庭に出る窓から外が見える。植木鉢などは全て片付けられている。
風に揺らされた木を見ていると、もう風向きなんてものもわからない。

隅の方で、小さな子供の影が動いた。

まさか、と立ち上がり窓に駆け寄るが、もうその姿は見えない。

窓に手を掛けると、凄い圧力がかかっている。両手で横にずらし、取り残されたサンダルを引っ掛けた。
温かな風は本性を現したのか、切り裂くような速さで私向かってくる。雨はそこまで強くないが、痛い。
風が目に見える筈がないのに、その動きが見て取れるようだ。

まるで直感的に、私は外に飛び出した。
あの影が誰だか――何なのかも、わからないのに。

低い風の音の中に、例の金属音が聞こえる。
――ブランコだ。

ふと顔を上げると、あの階段が伸びていた。
風の合間に、ブランコが揺れる音がする。規則的な高音。
誰かが漕がなければ、あんな音にはならないだろう。
しかしこの嵐の中で、あの軽やかな音を鳴らすのは無理だ。
さっきから、非現実的な話が、自分でも不思議な程にしっくりとくる。

横殴りの風に急かされて、1歩を踏み出した。
雨なども気にならなくなり、首を持ち上げる。

黒い桜の木の頭が、屋根の上から見え始めた頃だった。

「何してるんだ」
横から掛けられた声に、私は肩を跳ねさせた。
雨で黒ずんだスーツを着た父が立っていた。手に持っている傘はひっくり返っている。
我に帰ってみれば、確かに何をしていたのだろうと思った。
「そっちこそ」
私は声を張り上げる。

「子供を見た気がしたんだ」
父は真剣な顔で言った。顔に出すことはなかったが、私は驚いていた。

「私も、見た」
それだけ言って、振り返って階段を下った。

ざわざわと花びらが散り、みるみると視界を埋め尽くしていく。
ブランコの音はいつしか止んでいた。


3


さんさんと日の降り注ぐ、嵐の後の晴天。
そよぐ風は温かく、耳元で髪を揺らしている。からりと晴れた空を仰ぐと、小さな白い雲がぼっかりと浮かんでいた。
水溜まりにはふらふらと散らされた桜の花びらが浮かび、あの階段には桃色の絨毯が敷かれた。
誰に踏まれた跡もなく、水を受けて新雪のようにきらきらと輝いている。

3月の終わりの日。昨日までは色付いていたそれが、気休め程度の花びらを残して光っている。まだ風に任せて散っているのもある。

階段から、肌の白い女性が下りてきた。淡い色のワンピースを風に揺らし、穏やかな顔付きの中に多少の影を覗かせている。

頬から首にかけて、火傷の痕が見えた。
口元に微かに浮かんだ笑みを、私は見逃さなかった。


墓石にも公園にも、散った桜の花びらは、場所を選ばずに見える。
ブランコは清々しい風の中で小さく揺れている。

立ち並ぶ桜の木。それに混じった1本の黒。
私はその光景に息を飲んだ。

大きく広げられた枝には、満開の桜の花が付いている。
昨夜までは影のように黙っていた黒い枝が、さわさわと鳴っているのだ。脆く崩れてしまいそうに見えた幹も、生命力を溢れさせている。

桜吹雪と共に、墓地から線香の煙が流れてきた。
彼が喜んでいるのだろうか。

子供たちが階段を下りてきて、笑いながら公園に飛び込む。ブランコに飛び乗った子は、高らかな音を鳴らしながら空へ舞い上がる。

もうそこには、淋しさも恐怖もない。

喝采のような強い春風が、花びらの香りと一緒に何処かに飛ばしていってしまったようだ。
script / 木村 静花



18:00:00 | milkyshadows | |