Complete text -- "木のストーリー"

07 October

木のストーリー

artist file "tanebito" #08 [3/4] 
安藤 和夫 さん(創作家具 / 安藤工房

神代木

___「神代木(じんだいぼく)」で作品をつくってらっしゃいますね。

 「埋もれ木」とも言いますが、神の代から伝わるほどのタイムスケールのものを特別に「神代木」と呼んでいます。その木が欅なら「神代欅」、杉だったら「神代杉」と言います。
 お見せした作品は、北海道のエルムツリー/楡の木で「神代楡」です。神代木の中でも、神代楡にだけ現れる特殊な木目があって、その木目を出すことを積極的にやっていったら、ひとつの形が生まれてきました。
 箱根辺りでは、よく神代杉が出ます。杉の木が多く生えているし、火山もあるので、火山灰土に埋もれて神代杉になる可能性が大きいんです。

___相当な時間、埋もれていたんですね。

 1,000年から8,000年と言われています。

___8,000年ですか! それでも木は腐らないんですか?

 古代から木簡が出ることもあるでしょう? 環境によるんです。火山灰土は強アルカリですし、水に浸かっていたから腐らなかったということもある。
 奇跡的に大丈夫だったものが神代木として残っているので、全部が丸ごと使える訳ではないんです。しかも、樹脂分が完全に抜けてしまっている場合が多いので、相当難しいし、仕事としてはリスキーなんです。木の性が無くなっていてポックリ折れしやすいので、細い足の椅子などには向かないし、広い面積が無傷で平らな状態のものも少ないのでテーブルになることも少ないし、精密な仕事にも向かないので指物にもならない。僕も今までは、お茶道具のように小さなものに使われているものしか見たことがなかった。

厨子


___その神代木で「お厨子」というシリーズを創作なさった。

 「厨子」という概念にいたるまでに、10年以上の過程がありました。
 そもそも小田原の材木屋でたまたま神代木を見つけて、それを桟積みして枯らして持っていたんです。でも、不思議な色をしているし、それを何に使えば良いのかピンと来なかった。
 それと並行して、お仏壇を作る仕事がたまに入っていたんです。仰々しい仏壇はインテリアにも合わないし嫌がられる方が多かったり、日本だとクリスチャンでも便宜上お位牌があったりする。それで、仏壇ではなく故人の遺品を納めるメモリアルボックスとして、ゴシック風デザインの違い棚を作ったことがあって、すごく喜ばれた。亡くなった方に特定の宗教宗派があるにせよないにせよ、人間には宗教心というものはあるのだと思います。その時に、「手を合わす対象としての箱」を作ろうと思ったんです。
 どの様式でも、そこに付ける金物だとか脚や天板の形で様々に変わるだけで、基本形は「箱」なんです。装飾としての要素を取り払えば、ミニマムな「箱」になる。だから、最低限の「箱」を神代木で作ろうと思ったんです。この神の代から伝わる神代木こそが、聖なるものを入れるには相応しいと気づいた訳です。この木の持っている精神性だけで「箱」が作れないだろうか、と思ったのがスタートです。
 僕は楡の神代木を使いますが、その特殊な木目を出すために削って行ったらカーブになった。そのカーブは、図面に描いたデザインを木にあてがって造形するのとは逆で、木目からスタートしたデザインなんです。そういう仕事で「厨子」というシリーズを作って行ったんです。
 去年の個展の時には、それだけではストイック過ぎて説得力が無いので、金物と七宝の力を借りてワンランク上のものを作りました。

___先ほど見せていただいた作品ですね。

 銀製の金物は、佐土玲子先生の作品です。工芸会でご一緒で、いつか先生にお願いしたいとずっと思っていました。奈良県明日香村にお住まいで、天平時代の紋様のものを多く作られています。日本の、ゆったりとした時間が流れていたであろう時代の紋様がとても上手な方です。
 プレートの七宝は、皆さんがご存知の近代七宝ではなくて、上沼緋佐子先生の泥釉七宝です。七宝はガラス質の粉をプレートの上に並べてオーブンで焼いたものですが、近代は製錬技術や化学技術が発展したために発色が純粋でクリアになり過ぎて、プラスチックみたいでつまらなくなってしまっているんです。上沼先生は、文化庁の調査研究で古代七宝に携わったのがキッカケで、その魅力に取り憑かれたそうです。古代七宝は、つまり不純物が多く含まれているので、独特の深みというか独特の混ざり物があるのでしょうね。鋳物や焼物のような風合いがあって、質感の高いものです。
 神代木を寝かせていたこと。箱を作りたいと思っていたこと。その箱に、聖なる概念をつけて行ったこと。そして、金工と七宝の先生と出逢っていたこと。それらを自分の中でプロデュースして出来上がったものが「厨子」だったんです。

「木」は素材ではなくてパートナーなんです。


___素材としての「木」には、安藤さんにとってはどんな魅力がありますか?

 「木」は素材ではなくてパートナーなんです。「木」の方が明らかに僕たちより長生きしている訳ですから、樹齢数百年の木を伐るということは大変なことなんです。
 若い頃は、自分の思想や造形原理の方が先ず前提としてあって、それからそれに適した素材を探すという順番でした。それが、「木」というものに日々接していると、木の凄さ、計り知れなさにだんだんと長年かかって惹かれてきたんです。それは、他に言いようがないのですが、木の持っている「いのち」みたいなものなのでしょう。
 あたりまえのことですが、木は生き物だったということです。木は、ひとつの生命体として地球上に生えていた。その時は大きく枝を張って、葉が繁って、そこには鳥が飛んで来ただろうし虫も来た。たくさんの生命の循環の中で、大きな存在として木はあったんだろうなぁ、と。
 それは知っていたことですが、腑に落ちないまま仕事していたんでしょうね。技術を覚え、独立をし、「木」を手に入れて、でも僕は何を作ったら良いんだろう、と。
 そうして迷っている中で、「ネイティブ」と呼ばれている人達に出逢って、特にアイヌの人達の文化に徐々に接していったんです。ものを作ることに対して迷っていたことの答えは、そこから見つかりました。

___アイヌ、、

 彼らは、木や生き物や、たくさんのことの循環の中で生きていたんです。その「サスティナビリティ」という概念を自分の中に入れたら、ストンと腑に落ちたんです。
 当時は高度経済成長の中で、まだ「エコ」という概念はあっても言葉にはなっていなくて、「サスティナビリティ/持続可能性」という対案も提示される前でした。「使い捨て」に対して警鐘をならす人達もたくさんいたし、僕もその側にいたのですが、それが自分の仕事とダイレクトに結びついて来るとは、その時はまだ思っていませんでした。

木の体を使わせてもらっているのだとしたら、
その命の長さ、その命の量、
それに対して僕はどういう仕事が有効なんだろうか?


 具体的に結びついたのは、インドネシアやフィリピンから来る熱帯雨林材の最大消費国が日本だったということでした。今で言う「フェアトレード」で、そのことで現地の人達の生活や文化を支えているのなら良いけれど、調べてみるとそうではなかった。そういう話を聞いていくと、僕たちが消費するものがどこから来ているか知らないということは罪だと思い始めたんです。それで、消費者が消費しなければ循環は止まる、つまり熱帯雨林を伐ることを止められるかも知れないと思って、僕は「熱帯雨林材は使いません」とキャンペーンのように積極的に言い出したんです。そんなことを言う木工屋は全然いなかったのですが、僕は取材されたり発言する機会が多かった。
 それまでは、経済の仕組みの中で、お金さえ払えば「木」は無尽蔵に手に入ってどんな加工をしても構わなかった。でも、地球の一部であった木の、体を使わせてもらっているのだとしたら、その命の長さ、その命の量、それに対して僕はどういう仕事が有効なんだろうかとバランスを考えるようになりました。
 そうすると物量としてはなるべく使わない方が良いのですが、自然に対して何らかのインパクトを与えないと存在出来ないのが人間ですから、少なくとも、感謝と悲しみをもってその「いのち」をいただくことはとても大事だと思うんです。例えば一匹の豚を屠殺して食べるとしたら、その悲しみまで自分のエネルギー源にして行かなくてはいけない。食べ物だけではなくて、「木」を使うことも同じだと僕は思っています。

僕はなるべく素性の分かる木を使って、
木のストーリーを必ず語るようにしています。


 命は有限で、人間だけが死を悲しむ。人間は、そこに明らかに自然とは違う時間軸を見ているんだと思うんです。だから「永遠」という概念が生まれた。それを僕は形にしたい。
 「祈り」に近くなりますが、木の教えてくれることにどれだけ耳をそばだてられるかということを、自分の仕事にして行きたいと思っています。そうすると、木がなろうとしている形が何となく分かってくる。
 木の家具の注文を下さる方は「木って良いですね」と必ず言う。木を「自然」への入り口として、そこから「自然」を見ているんだと思います。
 ですから、僕はなるべく素性の分かる「木」を使って、「木」のストーリーを必ず語るようにしています。「木」に触ってもらって、「木」のエネルギーとその方とが何か響き合ったならば、それは素材を超えるんです。
 そこへ僕が技術をもって、「木」を器物に置き換える。それは、器物に置き換えた「いのち」なんです。使う方は、例えばテーブルという機能として使うのでしょうが、それは「いのち」をいただいている訳なんです。生活の中で「自然」を自分の傍に置いて、そこから大きなエネルギーをもらって行くのだと思います。そうして、大きなストーリーの中で、新しい1ページがそこへ加わって行く。その中のどこに自分はいるのか、ということだと思うんです。
(つづく)


18:00:00 | milkyshadows | |
Comments
コメントがありません
Add Comments
:

:

トラックバック
DISALLOWED (TrackBack)