Complete text -- "『エンデの遺言』"

10 February

『エンデの遺言』

artist file "tanebito" #13 [2/4] 
鎌仲 ひとみ さん(映像作家 / 最近作『六ヶ所村ラプソディー』

ドキュメンタリーはすごく多様で、
私のスタンスは、私が押しつけるのではなく、
観る人が自分で考えて択べるような素材を提供する、ということです。


___六ヶ所村では、核燃料再処理施設の本格稼働が差し迫っているようです。

 差し迫っていたんですが、延期になっているんですよ。1月1日に事故があって、その影響で遅れ込んで、2月の稼働と言っていたのですが「2月は無理だろう、今年度中も無理なんじゃないか」と。でも、日本原燃はそういうことを認めてはいませんが。

___一般のメディアでは、なかなかそういう情報に触れる機会がありません。
 
 マスコミが報道しませんからね。日本原燃はHPで発表するし、地方新聞は経過報告のようなことをやっているんです。でもマスコミを通じて出て来る情報というのは断片です。「いついつ本格稼働します」と言われても、普通の人はその意味が分かりません。
 「ドキュメンタリー」というスタイルで目指していることは、その全体像が分かって、尚かつその本質が分かるということです。自分にとってどういう関係があるのか、どれくらい重要なことなのか、全体像と一つ一つが分かって初めて自分と結びつけて考えられるし、想像することが出来る。でもマスコミがそういう伝え方をしないので、皆知らないし、興味も持てない。そういう状態だと思います。

___「ドキュメンタリー」ということは、それを観る方々に判断の為の素材を提供する、ということでよろしいのでしょうか?

 私はそう思っています。
 ドキュメンタリーはすごく多様で、私のようなものもあるし、もっと自分の感性や考えをガーンと出すものもあります。それは作り方のスタンスによって違うと思います。私のスタンスは、私が押しつけるのではなく、観る人が自分で考えて択べるような素材を提供する、ということです。
 でも、TVではそういうことは出来ない。私はTVの番組を作ってきましたが、やはり一つ一つを説明しなくてはならないし、ある一つの方向へ結論を持って行くということをやらないと成立しない。投げっ放しは許されない。

___私自身もこの『soulbeauty.net』はローカル局だからこその番組だと思っていますが、届いているかどうかは受け手の咀嚼力に大きく委ねられているように感じています。

 私も作っている時、TV業界で長年やってきたスタッフたちから「こんなのじゃ伝わらないよ。投げっ放しだし、どっちかハッキリさせた方が良いだろうし、もっと説明しなくては」という意見はずっとありました。だから、説明不足で分からないのではないかということに関しては両極端です。
 実際に上映してみると、普通の人の理解力や、共感する力、読み込む力というのは、モノ凄い! 私が意図した以上に深く読み込んで、分かってくれている。先日も高校生に観せて感想を書かせたら、すごく的確なんですよ。だから、意外に伝わっているんですよ。その実感は上映すればするほど高まって行って、「説明しないのが良い」と皆さん言うし、だんだん確信になって行って「あぁ、伝わっているな」と思うんですよ。

誰が現場へ行って、誰の視点で取材をし編集をし、
作品を貫いている考え方に、誰が責任を持っているのか?


 だけど一方で、TVは全部答えが用意されているし、良く説明されているから、それにドップリ浸かっている人からすれば辛い。そういう人たちは、そもそもこういう上映会には近づいて来ない。
 だから、私の映画を観ている人たちというのは、「今私たちが生きているこの世界がこのままではいけないな」と思っていたり、ある程度の問題意識があったり、興味が無くても別のところに感性がある人たちなんじゃないかという気がします。絶対数は多くないし、私も100%を目指している訳ではないんです。
 マスコミで作っていた時は、テレビで600万人が観ていました。だけど、その人たちがそれを観ていたからどうだと言ったら、ただ放映していただけです。でも、上映会はそうではないです。お金を払って映画を観に来て、2時間観て、見終わった後に主催者や私やゲストの話を聴いて、また別の情報をもらって、何かそこで出合いがあったりしながら、「じゃぁ自分は何ができるのかな?」ということを考えたりする。そんなことをTVの視聴者はやりません。だから、多くの人たちが見れば深く伝わっているのかと言ったら、そうじゃないんじゃないかな、と思います。

___だからこそ、自主制作/自主上映という手法なのでしょうか?

 手法と言うか、こういう形でやれているマスメディアの現場もあると思うんです。
 例えばイギリスのBBCやフランスのテレビ局というのは、ドキュメンタリー番組の枠の中で作家の名前を明らかにして放送します。だけど私が作ってきたNHKは「これはNHKが作っています」とする。「誰が現場へ行って、誰の視点で取材をし編集をし、作品を貫いている考え方を、誰が責任を持っているのか?」ということを、「NHKでございます」と言う。だから、そこに個人の存在はかき消されてしまう。責任の所在が全部NHKになってしまうと、現場で作っている私のようなディレクターの立場の者は、自分をどこで表現するのかということを奪われて行ってしまうと思うんです。
 観る側も、なんとなく雰囲気で「メインストリームの意見はこうなんだな」と、「NHKが言っている」と捉える訳です。

___ブランド力のようなものでしょうか?

 ひとつの権威や信頼性を確立した「NHK」が言っている、という裏付けはありますよね。
 私はその裏付けはありませんが、それよりも何よりも「誰からお金をもらって作っているのか?」という意味で、やはり自主制作はスポンサーの意向を気にしなくて良い。番組の内容がスポンサーにとって不利だから、というようなバイアスが働くのだとしたら、それは公共性を損ねていますよね。でも、公共放送であるマスメディアでは、実はそういうことがたくさんある。

『エンデの遺言』


___『六ヶ所村ラプソディー』では核問題ですが、その他、医療、地域通貨、メディアリテラシー等々、幅広いテーマを扱ってらっしゃいます。テーマはどのように出合っているのでしょうか?

 全部、芋づる式なんです。一緒くたに入っているんです。その都度々々、ひとつの作品を作るとその中で出合いがあって、また私の興味が様々で、その時々の興味の所へグーッと傾いて行くんだろうと思います。
 地域通貨を日本で初めて紹介した『エンデの遺言』(1999/NHK,グループ現代)という番組を作った時は、いきなり雨後の竹の子のように日本中で地域通貨を使う人たちが現れて使い始めたのですが、地域通貨でその問題を解決できたのかと言えば、解決できないまま今日に至っているんです。
 その問題は何かと言うと、地域経済です。自分たちが住んでいる地域の経済がどんどん疲弊して行って、何十年もやっていた豆腐屋さんや八百屋さんを閉めなきゃいけない。シャッター通りになる。それで、郊外に大きな店が出来る。まん中に年寄りが取り残されて、みんな大きい店に行く。そしてそこでお金を使う。そうすると、そういう大資本の店は本部が別の所にあるから、お金は全部そこへ吸い上げられて行くんです。
 それで、儲けたお金で会社は何をするのかと言ったら、従業員にも払いますが、事業を拡大する為の投資や、グローバルな経済の中で投機をするんです。つまり、例えば小田原市の人が使ったお金は、小田原市の外へ出て行って、小田原市の人たちの為には戻ってこないんですよ。出て行ったところで、何に使われているか分からなくなっちゃうんです。ブランドとして純粋なパルプを使ったトイレットペーパーを作る為に熱帯雨林をバサバサと伐るのに使われたとしても、分からないんです。
 だけど、豆腐を買う時に商店街の豆腐屋さんで買うと、豆腐屋さんが儲かる。豆腐屋さんは、テレビが壊れたら、豆腐を売ったお金で地元の電機屋さんからテレビを買う。そうすると地元の電機屋さんにお金が廻る。つまり、小田原の人たちのお金が地元の人たちの間を行き来する。そのことで経済が廻り、人々の生活が支えられ、豊かなサービスとコミュニケーションと、モノとモノが交換されて、街の中に活気が持続する訳です。それが、そうじゃない所へお金を使うことによって、どんどん吸い込まれて空洞化しているんです。だから、地域経済を立て直す為に自分たちのお金を作ろう、というのが地域通貨の運動だったんです。でも、いろいろなことがあって上手く行っていないんです。
 『六ヶ所村』は確かに核や放射能の問題なのかも知れませんが、もし六ヶ所村に出稼ぎに行かなくてもアベレージな生活を維持できるような産業があったなら、核燃料再処理施設を受け容れなくても済んだと思うんです。

___そういうことですね。

 問題は複雑です。
 「私たちが使うエネルギーをどうするのか?」という問題と同時に、そうした危険なものを受け容れなくてはならない地域の人たちにシワ寄せが行っているのは何故かと言ったら、その地域にその人たちが食べて行く産業が無いからなんです。では「なんで産業が無いのか?」と言ったら、日本政府が漁業や農業をやっても食べれないような政策をやってきたからなんです。

___なるほど、、

 そうしたことを一遍に解決するにはどうしたら良いかと言ったら、『エンデの遺言』のミヒャエル・エンデ(Michael Ende, 1929.11.12〜1995.8.29,ファンタジー作家,ドイツ)は「すべての根源にはお金がある」と言ってるんです。お金が悪さをしている、と。お金を使い続ける限り、お金を求め続ける限り、問題は膨れ上がって行って「やがて人間は、自然から手酷いしっぺ返しを受けるだろう」と。そう言ってエンデは死んだんです。
 そのしっぺ返しは、いろいろな形で私たちのところに返って来ていると思うんです。ずっと進行してきたことが、目に見える形になってきたんだと思います。取り返しのつかない所まで来てしまったのかも知れません。
 だから作品を作る時には、底辺を流れるものがずっと同じなんですよね。
(つづく)



[鎌仲 ひとみ さん / プロフィール]

大学卒業と同時にフリーの助監督としてドキュメンタリーの現場へ。
初めての自主制作をバリ島を舞台に制作。その後カナダ国立映画製作所へ文化庁の助成をうけて滞在する。カナダの作家と共同制作。NYではメディア・アクティビスト集団ペーパータイガーに参加。95年に帰国してからNHKで医療、経済、環境をテーマに番組を多数制作。98年、イラク取材をきっかけに「ヒバクシャー世界の終わりに」を作る。現在は東京工科大学メディア学部助教授に就きながらその後も映像作家として活動を続けている。
[代表作品]
『ヒバクシャ――世界の終わりに』(2003/グループ現代)『エンデの遺言――根源からお金を問う』(1999/NHK)『メディアリテラシーの現在と未来』(世界思想社)『ドキュメンタリーの力』(子どもの未来社) 他
 
18:00:00 | milkyshadows | |
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