13 September

メモリアルウィーク in 小田原 〜 記憶にとどめる夏・記憶に残る夏休み

artist file "tanebito" #21 
岩上 安身 さん(ジャーナリスト / IWJ
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行動というのはつまり情報を得ようとしているんですよ。
新しい認識を得ようとしているんです。



___小田原でのイベント『メモリアルウィーク in 小田原』の反応はいかがですか?

 雨、降りましたでしょ。それまでは本当に暑い夏らしい夏が続いていて、そして急激に寒くなった。そうすると何か2学期が始まったような気持ちになって、夏休みが終わっちゃったような感じ。(笑)夏休みらしい夏休みを過ごしてもらいたいなという気持ちがあったんです。福島の方々にも是非いらしていただきたいということもありましたし、小田原の地元の方にも。
 小田原と言うと関東の人はどういう所か分かっているんですけど、それ以外の人は意外と小田原ってどんな場所なのか分からない。実は箱根の麓で、湯河原があって熱海まで行ける、実に立地の良い所なんだとご存知ない方もいる。僕らのやっていることに関心のある方は、あまり地域は関係ないんです。北海道から沖縄まで、全国から無理してでもやってくる方がいらっしゃる。なので小田原とは言っていますが、小田原辺一帯を含めて楽しんで行っていただいたら良いな、記憶に残るような夏休みにしていもらえたら良いな、と思っています。

 もうひとつは311の記憶があり、そしてその3ヶ月目の611には脱原発のアクション/デモが非常に大規模に同時多発的に全国で行われた。僕たちもボランティアの方に呼びかけて同時中継を行ったわけです。それを全部集めて見せることは出来ていなかったので、じゃぁモニターを用意してそれを一遍に見せたらどうだろうというところから想像がふくらんで、昔ナム・ジュン・パイクというビデオアーチストがたくさんのモニターを集めていろいろ違うビデオを流すインスタレーションで一世を風靡した、ああいうイメージで出来たら良いな、と。いろいろな人の力を借りているのですが、そういう311のメモリアル。僕ら忘れやすいですから直ぐにいろいろなことを忘れて行ってしまう。あの時の事を記憶に留めようよ、という思いがあって『メモリアルウィーク』ということにしたんです。
 かつ、あれは一人一人がそれぞれの場所でやっています。それぞれの場所で自分たちの起こしたアクション/デモに関しては記憶していると思いますが、同時に日本全国150ヶ所くらいでそれぞれ違うことをやっていますから、その違いを含めて一遍に見るということは、他の人は何をやっていたんだろうと知れて面白いだろうと思うんです。

 ですから、「記憶」ということが一つのキーワードかなと思います。楽しさと深刻さの双方を記憶に留めてもらいたい。
 僕らは深刻ぶるだけで生きては行けない訳です。だから深刻な絶望的な状況下でも、僕らは笑うし、笑わなきゃいけないし、笑いたいし。だけれど、笑うことで僕らの置かれている深刻な状況を忘却して良いとは言ってないんです。忘却すべきではない。忘却しないで現実を直視して逞しく生きて行くためにも、笑顔で笑って乗り切る太々しさも時には必要だろうと思います。その楽しさとか朗らかさとか笑いと、そういうものと、辛くて厳しい現実を直視して、時には怒りをもって抗議しなきゃいけない所には抗議してハッキリとプロテストする。そうした姿勢が両方共に僕らには求められているんじゃないかなと思ったりするんです。


___一方で志があっても、どうして良いか分からなかったりということもあります。何かリアクションをしたくても手立てが無かったり、それで心を痛めている方もかなりいらっしゃいます。

 手立て無いなんてことはないですよ。絶対にないですよ。それはただ模索中なんじゃないですか? じゃぁ模索する為に、いろいろなキッカケはいくらでもどこにでも転がっていますね。行動すれば見えますね。
 例えばツイッターやりだして「いや、あんまり、、」と言うけど、「書いてるの?」と言ったら書いてない、つぶやいてない、読む一方みたいなね。そんなんじゃ変わる訳ないじゃん、と思うんですよ。それはやっぱり、行動する、ということですよ。どこか出掛ける。
 今日ここへ来たことで、何かのキッカケをつかむことだってあるでしょう。自分が被災地へ行ってボランティアをすることで「あぁそういうことだったのか」と納得することもあるでしょう。そこを見るのは面倒くさいけど、面倒くさいことをやりながら、武田さんのブログを読んだり、心ちゃんのブログを読んだりということだってあるでしょう。自ら行動しない人にどう言っても仕様がないですよね。何かをしてあげるというのは違うんだと思います。

 行動というのはつまり情報を得ようとしているんですよ、実際問題として。新しい認識を得ようとしているんですよ。その新しい認識を得る為に意志を持って行動しようということは、もう些細なことでも良いです。しようと思わない場合、それは他人が手を下すことは出来ないから、放っておくというのが一番良いと思います。いや、放っておくというのは大事なことじゃない。僕そういうこと構われたくないですもの。鬱陶しいですよね。(笑)「あなたは何でやらないんだ、もっとやれ」とか、「ウルセーよ」と思いますよね。(笑)僕はもうそういう構われ方大嫌いだから、人にやっぱりしたくないですよね。
 悩んでる人は愚痴を言いたいのかも知れないし、でも愚痴を言うなら愚痴を言ってそこで終わってしまう人もいるだろうし、愚痴からちょっと一歩出てもうちょっと次行こうと思う人もいるでしょうし。それも全部その人の自由だと思います、究極は。

 ただ、個人で解決出来ないことも絶対にあるんで、集団でしか解決出来ないこともあるし、国家でしか解決出来ないこともある。その為には、ある一定の世論の形成とか、集団形成とか、そういうことが必要となってくることもあるでしょう。もちろん僕は集団を形成することに特化した特異な能力がある訳でもないし、大きな集団の長でもありませんから、僕に出来ることでしようとは思ってるけど、でも一定の集団が一緒にまとまって動かないと上手くいかないこともあるというのも理解してる。

 僕はアジテーターのつもりはないし、結構マジメに普通にジャーナリストだと思ってるんですよ。だけど、傍観者であることが可能であるかのような虚構の上に成り立っている訳ですよ。
 と言うのは、僕らは行為者、こっち側で活動をしている、行為をする人がいる、それを僕らは眺める。一応そういうスタンスを僕ら今でも維持しているけれども、でもね、ここでね、例えば脱原発の活動をする人、僕らが横にいてそれを中継する人とやっていても、或いはこっち側にいて「原発推進だ!」と言っているような人がいても、等しく頭の上から放射性降下物が降るんですよ。で、僕は傍観者で「僕はどこまでも原発と反原発の論争を中立の立場で見る」とか言ったって、その頭から降っている時に「我々はこの瞬間に逃げるのか、どうするの?」という我が身の判断をしないといけないじゃないですか。
 我が身の判断は無かったことにしておきながら冷静なフリをして論じるというのはウソ臭い訳。だってNHKをはじめどこでも、南相馬でもどこでも言われるけども、みんな逃げたんですよ、あの場からマスコミ。あの場からマスコミ逃げといて「僕らは逃げた」ということを自分では言わない訳ですよ

 だから、個々人の勝手、個々人の自由な判断が大事だけれども、今日今やってる「避難の権利」というのをFOEがやっているけど、避難をしたと言うのは自主的な判断で自主的な行動だけど、でもそれは、避難せざるを得なくなった原因者は国であったり東電であったりする訳だから、そこに補償するべきだと、補償を受ける権利があるんだ、こういう理屈立てなんですが、本当にもっともだと思うんですね。
 そういうふうに、個々人が判断し個々人が納得してやるべきなんだけど、でも止む無く避難などやらされた時に、それぞれがある程度まとまって権利要求するということは当然じゃないですか。そういう意味では、人は連帯したり提携したり連携したり、絆を持ったり、一緒にじゃぁ制限付きだけど共に行動しようということはあって良いと思うんですよね。

 一番大切なのは、それぞれの人間が自分の為すべきことに関心を寄せないで他人に関心を寄せてることですよ。困っている人がここにいて、その人に関心を寄せないという意味ではないですよ。そうではなくて、個々人が自分に突きつけられている現実に向き合うこと。それは時にシンドイことでもあるから、なかなか出来ないことでもあるんですけれども。自分に向き合っていない人の話というのは、時間を浪費しますよね。



僕にとってはボランティアが云々という問題ではなく、もっと内在的な、
ジャーナリズムの世界の構造的な問題にずっと目が行っていて、
本当に辟易していたんです。



___市民ボランティアを募って『IWJ(インディペンデント・ウェブ・ジャーナル)』を展開なさっています。ボランティアを募ることに意図はおありなのでしょうか?

 意図じゃなくて、来ちゃったんですよ。

 非営利の様々なボランティア団体ってありますよね? 災害支援でも介護福祉でも教育の分野でも、いろいろな活動をされている方々がいる。それはもちろん存じ上げているつもりではいる。でも横目で見ながら、僕自身は自分の仕事がジャーナリストですから、ジャーナリズムというのは今日まで営利の、つまり商業ジャーナリズムでしかジャーナリズムじゃない、そしてある大手の一定程度の部数が売れる、一定程度の視聴者/視聴率が取れるとか、そうしたジャーナリズムだけがジャーナリズムとして認められ、あとは排除され相手にされないで来た。

 普通だったら、あらゆるものはアマチュアの膨大な裾野の上にプロが存在している筈なんです。ランナーでもゴルファーでも、日曜ゴルファーがいて市民ランナーがいて、ちょっとそこらをゆっくり歩いたり走ったりするだけのお兄さんお姉さんおじちゃんおばちゃん皆含まれて、その上に本格的なレースや五輪に出る人がいる訳です。それらがランナーとして差があるかと言ったら、全然ないです。例えばマラソンやハーフマラソンの大会があると、そうした普通の市民ランナーのレベルの人たちもトップランナーも一緒に参加するんですよね。
 僕、ランニングのクラブに顔を出してたことがあって、そこのトップ選手はオリンピックレベルの現役ランナーが関わっているんです。そのランナーが僕らと一緒に練習をやるんです。そして教えてくれるんです。僕らいっぱい故障を抱えているから、最初はゆっくり歩くことから教えてくれる。そういう市民の会費によってトップの選手の育成費が賄われるんですね。だから、市民が自分で参加して自分自身の楽しみを得ると共にトップを支えるサポーターになっている、という構造になっている。たまたま趣味でちょっとやったんですけど、これって新しい市民参加のカタチだよなと思った。
 その時はジャーナリズムのあり方についてどうこう考えていた訳ではないんですけど、商業ジャーナリズムのプロだけが存在していてあとのアマチュアを徹底的に排他的に退けてしまう世界と、そうでない世界がある。そうでない世界のあり方というのは、実はすごく豊かでふくらみがあって素晴らしいものだと思っていたんです。

 で、僕にとってはボランティアが云々という問題ではなく、もっと内在的な、ジャーナリズムの世界の構造的な問題にずっと目が行っていて、本当に辟易していたんです。デタラメな報道と言いますか、恣意的に歪められる事が横行するというのが変わらない。変わらないどころか、非常に危険な論調を世間全体を強引に持って行く。そしてそれをやる資格があると思い為してる。
 僕は僕なりに内部に居ながら、発信できる手段を使いながら発信してきたつもりですけど、これは本当に根本的な問題だなと思っていた時にインターネットに出会った。周回遅れであったけれど、これは使える、と。いろいろな特性がある。先ず、一次情報を制限無く載せることが出来る、届けることが出来る。
 これがお金になるかならないかとか、ボランティアを使うかとか、そんなものは後ですよ。まずはジャーナリズムとしてどのようにそれが有効に機能できるか、つまり情報をどのように価値ある手段として届けられるか。まずはそこですね。その為の武器/ツールとして有効であると。やることはジャーナリズムに変わりありませんよ。新聞を紙に印刷しようが、TVで電波に乗せようが、僕らは情報の意味内容を伝えているんですから形式なんてどうでも良いことなんです。ただ形式がどうであれ、その意味内容が重要で、そしてその意味内容が確実に届けられたり、キチンと届けられたり、十二分な量を届けられたり、いろいろな特性がある。その時に、このインターネットは大変に有効であると思った。
 で、インターネットを使い始めた。そうすると、それをウザイと思う人、歓迎する人、と出て来た。まぁそれも僕にとってはどうでも良いことで、どうこう言われても一切気にしませんから。やり出した。

 すると、手伝いたいとか支援したいとか言う人が現れた。何を言っているんだか、初めは分からなかった。でもそうした人たちが現れることで「ボランティアでやりたい」と。ふぅん、変わった人だなぁ、と。(笑)今いるスタッフたち皆そうですよ。ちょっとでも良いから、タダで良いから手伝わせてくれ、って。「はぁ〜?!」みたいな感じじゃないですか。(笑)でもまぁ「じゃぁ手伝ってもらおうか」みたいな。
 でもタダでずっとじゃ居心地悪いじゃないですか。「じゃぁ、ちょっとお金払うよ」と言ってバイトにして。でも何か別のバイトを持ってコチラの仕事もやって、というような。そのうち「向うは辞めたい。つまらない。こっちでやりたい」「えー、俺カネ無いんだよ」とか言いながら、「でもまぁそんなに言うんだったらじゃぁ何とかしよう」という風にして膨らんで行った。
 ボランティアをやった人の気持ちも分かるし、人をタダで使ってというようなことを言われるのも本意ではないけれども、でもまぁ必要なんですね。やってくださることは有り難いことで、僕らも収益を上げてないから、とりあえずはカンパや寄付でやって行くしかない。それはそれで意味があるんだな、と今は思うようになりましたね。


情報は売りようがないんです。情報というのは商品にはならない。



 情報は売りようがないんです。情報というのは商品にはならない。金を出して売り買いするには不適切なものなんです。何故かと言うと、売買するということはそこに所有が発生する訳でしょ? 例えばこのジュースをあなたに売ると、あなたはお金を僕に払うことによりコレを所有する。でも僕から何か情報を買う。その情報を持っててどうするんですか? その情報は、たぶん人に伝える。人に伝える段階で、自分の持っているものはスリ減って行くんです。且つ、こういうものはあっと言う間にコピペされて行くんですね。
 紙に書いてある印刷物、例えば新聞を買うというのは、情報の載っているペーパーを買っているのであって、でもペーパーではない電子情報が流れる時代に、とっくの昔に僕は気づいていたことで、これは際限なく情報の価値はゼロになる。と言うか、価格がゼロになる。価値はゼロにはならないけど、価格はゼロになる。価格ゼロの時に、商業としてジャーナリズムは成り立つのか?(情報を)ひとつのモノのように見立てて一物一価で売買して決算するジャーナリズムって成り立つのか? 成り立たないですよ。成り立たないのに何とか生き残ろうとして悪あがきをしているんですね。そういう構造的なところから考えないとジャーナリズムの貧困というのは理解できないです。

 モノはコピー出来ませんから。このグレープジュースは、グレープジュースとして所有も出来るし飲むことも出来る。簡単に他の人によって共有されたりコピーして流通することは出来ないけれども、情報は一瞬にして流れる。ということはどういうことか? 営利という関係が成り立たない。
 そして皮肉なことに、この20年、新自由主義が非常に強まって市場経済一色になって「すべてのことは市場経済をベースにするべき」だし「市場経済における売買の関係こそが関係性の全てだ」と思うような風潮がつくられた。デマですけど。
 でも、そういう関係では成り立たないということが、ネットを介して、まさに情報そのものがそういうことは無理なんだ、出来ないものなんだということが露になってきたんですね。

 そこに有るのは「贈与」とか「感謝」とか「共感」とか、非常に経済的ではないタームなんです。共感のために人はお金を出すこともあるし支援することもあり得るし、損得とは関係なく支持したいと思うこともあるだろうし、それが寄付であったりなんかもする。それも別途の社会的な関係だったんです。ずっと昔から存在する。市場だけが存在してきた訳じゃないし、多くの、例えば福祉的なものも、コミュニティが存在するのも、実は営利とは関係のないお金の出し方とか、支援のしかたとか、ボランティアで人を手伝うとか。
 そういうことはずっと古今東西どこも続いて来たんだろうと、そういうことに僕も最近気づいたんです。自分が営利で動いていて売買をする世知辛い商業メディアの中にいる窮屈だというもの、それを変えて行こうとすると非常に構造的な限界があると、分かっていたけれどもそこを破れなかった。でも「なるほど、そういう社会関係あり得るよね」と気づいた。ま、このやり方で上手く行くかどうかというのは分かりません。ダメだったらダメでそれだけなんだから。だって支持がないんだから、支持がないものは存在しなくても良いだろうし

___手応えはいかがですか?
 
 それは皆さんがご判断いただくことです。


皆が発信の主体となって、それから入ってきた情報を編集する。
考えるというのはつまり編集することですから。
情報の編集の主体というのは最終的には個々人にあるんだよ、ということだと思うんです。



___311以前から『トークカフェ』で全国へ出向いて行って、実際に分け入ってリアルな出会いを通じて伝えて行くことをなさっています。

 まず基本的には既存メディアの歪みをどうにかしなきゃいけないと思って、でもどうにも聞く耳を持たない訳ですよ。でもそうやって闘っていても不毛なので、別の回路で人に情報を伝えて行きたいと。でそういう活動を続けたい。活動を続けたいというのはマネタイズだったりする訳だけど、マネタイズというのは直ぐお金をもらうというんじゃなくて例えばカンパで成り立つということも含めて運営のあり方である訳です。運営のあり方が目的なんじゃない訳だから、大事なのは、目的の為にコレは手段としてある訳で、その手段が目的化したりして金儲けようと思ったら全然別途な発想になっちゃう訳ですよ。そんなつもりじゃない。まずは人に有益な情報を別の回路で伝えて行きたい。そうすると商業メディアの有り様とは違うメディアの有り様、双方向性であったり、編集加工されていない情報を届けることであったり、ということをやる訳です。そこには「信頼」というのがとてもキーワードになる。他方で既存メディアを挟み撃ちにしようと思うと、先進的なソーシャルネットワークを使いながらも、やっぱり原点に返ることがとても強いんじゃないかなと思う。

___挟み撃ち。。

 既存メディアをアテにしない訳ですから、既存メディアに潰されることもあるし、意見や論調が対立すればそれは激しい場合もあるでしょう。だから全然別途の情報の伝え方をしなければ仕様がないでしょう。だからそういう情報の伝え方をするにはアナログなことが一番だよなと思った訳です。集いと語らい。集まってもらって話す。人の話を聞く。要するに、太古以来ずっとやっていることです。

 基本はね、僕は何でもそうですけど、いろんな状況でいろんなことを感じたり見つけたりしますけど、それをもっと原理的に考える。ちゃんとロジカルに組立て直さないと、そういう活動というのは、あるいは行動とか行為というのは、根っこがないと脆く崩れてしまうんですね。あんまりものを考えないでやっていると。

 僕がオカシイ歪んでいるなと感じるのは、近代ジャーナリズムとか近代的なメディアのあり方と大衆のあり方で、発信者はメディアであってそこに独占されていて全部(大衆は)受け手専門であるという関係になっているけど、こんなクレイジーな話はない。そうではなくて、人類あるいはそれ以前から、人間というのは必要性があって情報の交換をしてきた訳で、この情報の交換というのは貨幣で売買されてきたものでもなんでもない訳ですよ。そして発信の権利というのは生得的にあるものだと。だからその発信の権利というのをマスメディアに占有されているのはオカシイということですよ。
 もっと個々人が発信し、伝えて行く。それには最もアナログで、最も原点に返る手段。それが集いと語らいであるというふうに思って、じゃぁ出来るだけいろいろな人とface to faceで会って、まぁ直感的に言ってもそれが最も有効だっていうのは取材の現場でも分かっている訳ですから、それをし続けながら、他方でこの先進的なソーシャルネットワークの方を使いながら。ところがこの両方は非常に相性が良い。だから挟み撃ち出来る。

___情報が伝わって行った先のヴィジョンはおありでしょうか?

 (笑)どうでも良いし、そんな話。
 僕らが太古以来、人として人の集団として行きて来た営みの中に、すべての人々の間に会話がありコミュニケーションがあり、それは口伝えで伝えたり、ようやっと文字を発明したり言葉を作り出したり、ノロシを上げたり、いろんなことをして情報を伝えてきて、ずっとやってきた営みの先に何かヴィジョンがあるんですかって聞かれたって「はぁ?」としか言えません。人間の営みの延長上にあることでしょう、と。人間のどういう営み、我々はどう生きて我々はどんな社会を形成して行くかということと非常に深く密接に関わっていると思いますけど、僕らが追う訳じゃない。僕ら一人が追う訳じゃない。

 と言うのは、人間は誰でも一所しか占められない訳ですよ。この世界の中の局所、とっても偏った或る一地方の或る一極点、点でしかない訳ですよ。今僕は神奈川県の片浦中学校の校長室でお話をしている。ここに閉めていて僕の入る情報というのは、今この極僅かな視野でしかない入ってないですよね? 僕が動けばまた別の情報が入ってくる。ありとあらゆる人間がそれぞれ認識の主体で、認識するのが人間しかいないんですよ。もちろん虫も獣も認識しているかも知れないけど、僕らとそれは交信できませんから。僕らが可能な、僕らにとってとりあえず重要な通信とか交信する主体は人間ですから。その人間たち皆それぞれに認識の主体で、全然違う場所に居て、全然違うモノを見て、全然違うことを語っている訳だ。僕らの発信するものというのは極限定的ですよ。そして、全てのマスコミだの政府だのも、発信している情報の主体として振る舞っているのも、実は全部限定的ですよ。全部中心であり得ないし、全ての情報を集約してそこで総合的に判断を下して真っ当な情報を流すとか、そんなこと絶対人間には出来ません。これは最も重要なことだろうと思います。
 情報はどこかに中心があって、センターがあってですね、そこに集約されるものではない。情報は常に偏在しているんだということですね。

 あのインスタレーションもそういう意味合いがあります。一箇所が中心地じゃなくて、北海道から沖縄までそれぞれの場所でそれぞれの人たちががその時自分たちが中心だと思った。声発している訳ですよ。だから、どこか一箇所でモノを言うことが何かになる訳では全然ないだろうと思うんですよ。
 要するに皆が発信の主体になる、と。自身発信の主体となって、それから入ってきた情報を編集する。編集するのも勝手にやられちゃっている訳ですよ、新聞だの。そうじゃない。考えるというのはつまり編集することですから。情報を編集する。情報の編集の主体というのは最終的には個々人にあるんだよ、ということだと思うんですけどね。

(2011.8.23 神奈川県小田原市旧片浦中学校にて 取材/シモダモトカ)




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21 August

音楽がつくる空気と勇気

artist file "tanebito" #20 
宮 武弘(ミュージシャン / Natural Records



___Newアルバム『Going Up』を6月に発売なさいました。

 フルアルバムとしては1枚目ですが、それまでにミニアルバム2枚とシングル2枚を出しています。Natural Recordsはライブバンドなので、とにかくライブに行きたくなるようなアルバムにしようと思って、スタジオ録音とライブ録音と混ざっているんです。

___曲作りはどんなふうになさっているんですか?

 僕が作るのが60%で、あとは皆でスタジオに集まってセッションしながら作っています。何十セッションとしたものを全部録音して、それを後から構築していきます。

___Newアルバム『Going Up』の中では、『オレンジとブルー』が私の一番のお気に入りです。

 あー、切ないなぁ。あれは夏かなぁ。詩が書けなくて夜中に原っぱで寝転がっていたら流れ星が流れたんです。流れ星が流れたら願い事を言えば叶うってあるけれど、なんだかそれが非常に自分勝手に思えたんです。そんなことよりも、ああやって流れて一瞬で無くなっちゃうんだろうなと思ったんです、自分も。
 その当時何人か出逢った人がいて、すごく優しい人だったんですけど、その優しさに辿り着くまでにいろいろあったんだろうなぁとか。楽しい話をして、明るいコトはオレンジに見えるんですけど、バックグラウンドが濃いブルーに見えるというか。それでこのサビが出来たんです。
 ”愛の言葉は オレンジとブルー / 燃える喜びと淡い寂しさが / 溶け合って揺れている"
 優しいけどせつないなぁと思った記憶がこの曲になったんです。



音楽が大事かとか言うより
それによって動いている人間の心が本質だから
それを本当に大切にして行きたいですね



___私が初めて宮さんのライブを聴いた時はウクレレのソロでした。バンドでの音はリズム隊がとてもタイトで全く違う印象です。

 ソロとバンドは対極ですね。バンドは「よし!」と斜めに一段上がっていく感じですが、ソロはこうして話しているようなところからそのまま音楽に行き来できるような感じてやっています。

___場の空気と会話しながらアジャストする感じでしょうか?

 ソロの時はそうですね。バンドの時は呼吸すると言うよりは、空気を「フワッ!」と作っちゃう感じです。そういうモードの違いはあります。

___あの時は小さなカフェでのライブで、立食パーティのような状況でお客さんの中に分け入って演奏なさっていました。(笑)狭いスペースでほとんど丸腰のような状況で演奏している姿にミュージシャンシップを感じました。

 ああいう場面は多いんです。自分でも作っているし。いろいろな所へ行って、ウクレレがあればウクレレで演るし。まぁでもアカペラはないかな。(笑)
 やっぱり場を特別なものに一段上げたい願望があって、それが生きている意味のように思うんです。僕が行くことによってどこの場所でも歌う場になる。喜んでくれる人が各地に増えて来てくれているので、だったら一人一人にそれをちゃんと届けていきたい。

___特別な一段。。

 音楽って空気だと思うんです。音自体が空気の振動ですから。
 空気がフワッと震えると、その震えているのが皆に伝わっているから、同じ波に乗ると思うです。たとえばBGMがかかっているお店でそれが途切れた時に、素になって不安になったり居心地が悪くなったりすることがあると思います。それは音楽が作った空気の波に、いつのまにかみんな乗っていて、それが急になくなるからふっと地面に下がる、そこで不安になっているのです。それと同じように、僕が歌って音楽を奏でることによって、空気の波を作り、そこにみんなを乗せて床から一段あげてしまう。それがお互いにとって心地良いものであればあるほど、皆がフワッと宙に浮いているような気がするんです。

___非日常的な何か、でしょうか?

 そうだと思います。音楽は衣食住に入っていないから後回しになるとか言うけど、お祭りとかもそうですが衣食住に入らないからこその非日常であって、それが空気であり、人に伝わって勇気になって行ったりする。そういう要素のものだと思うんです。音楽が大事かとか言うより、それによって動いている人間の心が本質だから、それを本当に大切にして行きたいですね。





___311の後、メッセージを伝える側に身を置く者はいろいろなことを悩んだりしていると思います。

 本当にいろいろな価値観が今までよりもハッキリしてきたと思います。
 僕らも当日ライブだったんですが、とても会場には辿り着けないしライブは中止になって。ウチのベースが岩手の出身でいろいろ連絡を取ったりザワザワとしました。

 5月に震災復興へ向けての義援ライブを東京で企画したのですが、いろいろな人が敏感になっていてそうしたアクション自体も賛否両論が出て、自分としてしっかりと責任を取れることを自信を持ってやって行こうと思いました。自分がそこで説明が出来て、自分発信でやれることがどこまでなのかをしっかり見極めるようになりました。大きいプロジェクトも必要なのですが、他人を巻き込もうとすると価値観の差が出て来てしまうので、そういうことを考えるようになりました。

 311に震災があってやっぱり衣食住ありきのものであるということが露呈したんだけれど、じゃぁここから何が必要かと言った時に、人の心が動いて「頑張って行こう」と思える動機づけがスゴク大切だなぁと思うんです。
 今はいろいろな価値観が立ち上がってきているから「そうじゃないよ」と言われることもあるんだけれど、人々がそう思ってなくても僕は音楽をやりながらヒュッとボールを投げれるような人になりたいですね。理屈で話して納得しようとしてもなかなか難しいことですから。(笑)
 その為には自分で日々呼吸をしながら、いろいろな所へ行って演っていきたと思います。

___ボールを投げる側。。

 そうですね。これを生業とするには投げ続けないと。そして投げる球はより磨いて、シンプルにして、無理のないところにして、そして多くの人に受け取ってもらえるようにならないと生きていけない。そういう覚悟はあります。

___それを動機づけているのは何でしょう?

 うーん、、、
 歳を重ねていって、音楽だけでなくいろいろな業界で僕より10歳上 / 15歳上 / 20歳上の人が本当にやってきているからこうなっているんだという姿に出逢えるようになって、「いやぁ頑張らないとなぁ」って。(笑)「あぁいうふうになれたら良いよなぁ」って。

___どんな方が目標にあるのですか?

 Theatre Brookの佐藤タイジさんとか、大きいステージから小さい日常的な現場まで駆け巡れるミュージシャンは凄いと思います。その時に出逢ったその人のことを大事にしていて、そうありたいと思います。
 そういうふうにして行けば減らないんじゃないかなぁ。出逢った人をちゃんと大事にしていれば毎日が積み重なって行く。そんな気がするんです。







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18 January

Liberation (11.1.18 OA)

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#1 Circe (Jazzanova Mix) / Ursula Rucker "The Remixes, 1997-2000 (Disc 2)"
#2 High Noon / Kruder & Dorfmeister "G-Stoned - EP"
#3 Private Eyes / The Bird and the Bee "Interpreting the Masters Volume 1: A Tribute to Daryl"
#4 Saturday Come Slow / Massive Attack "Heligoland (Deluxe Version)"
#5 War & Peace / 坂本龍一 "CHASM"
#6 Thank You for Your Love / Antony & The Johnsons "Swanlights"
#7 Cantamilla / Tranquility Bass "Beautiful Field"
#8 Pure Jam / Senor Coconut & his Orchestra "Plays YMO"
#9 Laidback Lady (Lo-Fi Electric Mix) / Kevin Yost Future "Flash Back Remixed"
#10 Liberation / Chari Chari "in time ULTIMATE COLLECTION"

[opening theme] Everything You Do / The Gadd Gang "The Gadd Gang"
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11 January

Fragile (11.1.11 OA)

soulbeauty.net (11.1.11 OA)


#1 Debadop / DJ Smash "Jazzy Grooves Collection"
#2 Meci Bon Dieu / Charlie Rouse "Blue Note Trip: Jazzanova - Lookin' Back / Movin' On"
#3 Oyimbo / Femi Kuti "Day By Day"
#4 Green Power / INO hidefumi "Mellow Beats, Friends & Lovers"
#5 Namania / Habib Koité "Hear Globally (A Cumbancha Collection)"
#6 Fragile / Joao Pastori "Gypsy Kings & Queens"
#7 Omstart / CORNELIUS "Sensuous"
#8 Pendulum (Left Coast Mix) / Kevin Yost "Future Flash Back Remixed"
#9 Rememorix / Ojos de Brujo "Bari"
#10 Making Noise / Damien Rice & The Cheshire Project "Songs for Tibet - The Art of Peace"
#11 Laurentech / SPECIAL OTHERS "Laurentech - Single"

(2010年1月12日に放送したプログラムの再放送です)

[opening theme] Everything You Do / The Gadd Gang "The Gadd Gang"
[ending theme] Virginia Sunday / Richard Tee "The Best"
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04 January

年末年始スペシャル #2

soulbeauty.net (11.1.04 OA)


#1 ばら色の人生 / 山根麻衣 "きんのひも"
#2 Pullo Àrdo / ユッスー・ンドゥール "Rokku Mi Rokka"
#3 My Cherie Amour / Chris "Big Dog" Davis & Timmy Maia "Smooth Jazz Plays Motown's Greatest Love Songs"
#4 People Get Ready / David Sanborn & Jonathan Sanborn "People Get Ready - A Tribute to Curtis Mayfield"
#5 I Shall Be Released (feat. arvin homa aya) / Reggae Disco Rockers "reggae magic"
#6 Give Me Love (Give Me Peace On Earth) / George Harrison "Living In the Material World (Bonus Track Version) [2006 Remastered]"
#7 Will I ever see your face again feat. 畠山美由紀 / 沖仁 & 畠山美由紀 "New Day to Be Seen"
#8 Complaining Too Much / Port Of Notes "Complain Too Much"
#9 Running On The Sand From Somewhere To Anywhere / Calm Featuring Spiritual African Nova "Shadow Of The Earth"
#10 Cosmic Wedding Song / 山根麻衣 "きんのひも"

(2098年新春特別プログラムの再放送です)

[opening theme] Everything You Do / The Gadd Gang "The Gadd Gang"
[ending theme] Virginia Sunday / Richard Tee "The Best"
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