Archive for January 2008

27 January

自然から得た恵みを還元する

artist file "tanebito" #12 [4/4] 
MAX さん(ナチュラルヒーラー)

「催眠」にしても「心理学」にしても、
それは学問であって、実験なんですよ。
それが外へ出て行ってしまうから核兵器が出来てしまう。


___「変性意識」と「催眠」ということをおっしゃいましたが、今の社会では、その「変性意識」へと、何らかの意図を持って「催眠」で誘導するようなことが行われているように感じます。

 あまりにも安易ですよね。
 「催眠」にしても「心理学」にしても、大学の中で研究されることは素晴らしいことで、自然界に在るものを純粋に知ろうとすることですから問題ないんです。ただ、それは学問であって、実験なんですよ。だから外へ出て行くというのは、人体実験をしてしまっているようなものなんです。そこから外へ出て行ってはいけないんです。まだ完成されていないものなんですよ。分からないものなんですよ。
 ところが、それが外へ出て行ってしまうから核兵器が出来てしまう。哲学も、外へ出て人と関わろうとすると「宗教」になってしまう。心理学も外へ出てしまうと「催眠療法」になってしまう。まぁ、その人が幸せになるというよりは、迷走してしまう方向へ行っているという感じですよね。
 「どうして特殊なことをしようとするの?」ということです。「宇宙」で在って、星が在って、という単純なことが、それが素晴らしいのに、それでは満足出来なくなってしまった。
 何かしらの理由があるかもしれない。だけど、少なくとも今の僕に言えるのは、何をしてもいいから、「とにかく、空を見て、雲を見て、星を見て、月を見て、自然を感じて」ということです。

___MAXさんは子どもの頃、石を見ていろいろなことを感じていたというお話をされていました。それは、何十億年という長いスパンの歴史を、石から感じたのだと思います。一方で多くの人は、自分のライフタイムという短いスパンでの結論を求めているということではないでしょうか?

 社会で「死」を設定したということも、それは良いんです。それがどうして間違ってしまったかと言えば、「人は死なない、人間は死ぬ」ということが感じられなくなってしまったということなんです。
 「死」は、人を怖がらせる為のものじゃなくて、安心させる為のものだったんです。普段の生活でも「寝て起きる」ということがあります。実際、それすら出来なくなって不眠症が多い。眠れない。眠れないから起きれない。疲れてしまう。不感症になったから、そういう障害が起きてしまう。脳が暴走して「悩」んだから、自然のサイクルから離れてしまったんです。
 僕は今回『闇と光のガイドブック』という本を書きましたけれど、その中の詩を読まさせていただきます。
 
  「死」は神からの贈りもの
  生き抜いた人へのご褒美
  それは、大きな二重(ふたえ)の虹
  あなたの自由な魂は
  その虹を飛び越える。
  やがて始まる、新しい旅へ
 
 これはあくまでも詩ですから、自然界にある分からないものを敢えて言葉に表現しているもので、「こうだ!」と言っているのではないですから、「神がいて、、」というように誤解されて欲しくないのですが、要するに僕は「死」は贈りものだと思うんです。「一区切り」なんです。だから、「死」は怖いものじゃないんです。逆に、ホッとするものなんです。
 例えば、この番組がいつか終わるとします。でも、放送は終わるけれど、放送番組というものは実体がないんです。やっているもと佳さんに実体があるし、聴いている人に実体があるんです。放送は終わっても、その実体は終わらないんです。そんな感じですね。ずぅっと続けるとなると、人はヘコタレちゃうんです。動物は、そんなこと意識もしないから結構平気なんです。

一つのものがすべてに良いということはないんです。
もちろん何をやっても良いけれど、
まず「感じる」ということをやって欲しい。


___ヨガについて、否定的なことをおっしゃっていました。
 
 否定はしていないんです。自分が出来ている人がヨガをやるのは良いんです。でも、感覚が麻痺しちゃって、自分が「感じる」ということが抜け落ちている人がやるものじゃない、ということです。
 何をやっちゃいけないということはないんです。まず「感じる」ということをやって欲しいということです。

___私もヨガをやりますが、わたしにとっては、体の感覚を通しての「気づき」というプロセスなのですが。

 それは「感じる」ということを、ヨガをしなくては感じられない特殊なものとして殊更に捉えているんです。
 ヨガはあくまでもバラモン教・チベット密教の頃の修行法ですから、それとは違います。そこでまず体を鍛えていって、その長時間の特別なポーズをすることで、脳を変性意識に導いて行って、変性意識の中で幻想を見ようという試みなんです。つまり「幻想」を見る為のものなんです。でも、幻想も良いんですよ。人は幻想で生きていて良いんです。子どもが「ボク宇宙飛行士になるんだ」という夢も幻想なんです。それで人間は生きられるんです。
 でも、その頃は今みたいにビルがたくさん建っていた訳でもないし、チベットの山奥ですよ!空や星が見えて、その上でやるのなら良いんですよ。ビルが林立して常に人工的なものに囲まれている人がヨガをするのと、チベットの山奥でほとんど人と関われない状況の中でヨガをするのとでは違うんです。そこをカン違いしている。
 一つのものがすべてに良いということはないんです。もちろん何をやっても良いけれど、まず自分が「感じる」、そこがしっかり出来ている人なら、何をやっても良いということです。
 
ただ元へ戻るだけ。ただ在ることを感じるだけ。
それほど素晴らしい即効性は無いんですよ。
要するに、自然からの恵みです。


___時間の永遠性と有限性からくるジレンマなのかも知れませんが、不完全な学問が外へ出てしまうことしかり、どうしても人は即効性を求めがちに思います。即効性のあることとしては、どんなことをお考えでしょうか?

 だから私が一番言っていることじゃないですか。「空を見て」って。一番早いでしょ?
 例えばね、ヨガの教室に通うのには、場所を調べたり、授業料を用意する為に仕事をする訳です。そうすると、ヨガを始める為にはどのくらい時間がかかります?

___諸々のことを考えると、かなりの時間が必要です。

 でしょ?
 僕が言っているのは、「空を見て、星を見て」です。時間を計ってください。今、僕は立って、窓を開けます、網戸を開けます。もう終わりました。これ以上の即効性があります?(笑)これだけなんですよ。
 あそこにカラスが飛んでます。雲があります。紅葉がキレイです。音も聞こえます。もうそれで、僕の体には変化が起きているんですよ。勝手に変化が起きるんです。僕たちが意識しなくても、心臓は動いてる、髪の毛は伸びている、細胞は動いている。それ以上の、それほど素晴らしい即効性は無いんですよ。人が作れないんです。いくら人間の技術が進歩して、コンピュータやTVが出来たところで、人間はハエ一匹作れないんです。月まで飛んだって、石一つ作れないんです。作れないんですよ、人間は。

 大学へ行って勉強することも良いでしょう。それが人の営みだったり、生きることだったり、楽しみです。僕もサーフィンをします。サーフィンをする為には板が必要です。その板を買う為にはお金が必要。だから仕事をして、板を買って、ガソリン代を使ってそこまで行って、そしてサーフィンをする。何も否定することはない。僕も僕で、そうして楽しんでいます。
 今はこうして閉じこもった部屋にいるけれど、本当に空を見ることはタダなんですよ。サーフィンの場合はそのこと自体が、空を見て、雲を見て、風を感じて、波を感じて、海を感じて、砂利を感じて、自分の体も自然と一体となるから僕は大好きなんです。
 僕たちはこの宇宙に生きていて、宇宙にはもの凄くたくさんの星がある訳です。あるということは、見えなくてもそこからエネルギーが届いているんです。電波望遠鏡があれば、それが観測出来て、波形も出るんです。それを、僕らの体は感じているんです。勝手に感じて、勝手に反応している訳なんです。それを、脳で意識することで、そういうものから離れていると思い込んでしまっている。本当は離れてないんです。ただ元へ戻るだけ。ただ在ることを感じるだけ。とても簡単なことなんです。
 僕も、マウナケアに行き、海に行き、感じていくことによって、自分の中にあったものと、変化して感じてくるものとがあったから、凄くそれが分かるんです。「これは凄い!」と経験したんです。要するに、自然からの恵みを得たんです。
 
自発的な感謝、自発的な思いやり。
それは源泉のようなものですから尽きることがないんです。
バイブルも要らない。自分の中にすべてがあるんです。


 ハワイにホクレア号という舟の船長でナイノア・トンプソンという方がいらっしゃるんですが、彼が星だけを頼りに(自然/宇宙を頼りにするということは、全体をフル活用するということなのですが)航海をする時に、「何故それをするのか?」と聞かれて「自然からいただいた恵みは、還元しなければいけない」と答えたんです。僕は「あぁ、そうだよな、当たり前だな」と思ったんです。それをしたかったんだな、と。
 「そうしなきゃ」と言うのではなくて、ただ自然にそうしたくなるんです。こうして日本に来ることも、自分がハワイで得た、感じたものがある訳なんです。そうすると、自発的な行為としてそうしたくなる、こうして話したくなる。自然から恵みを得た者は、循環してしまう。
 だから、自発的な感謝、自発的な思いやり、それが社会としての法律や道徳ではなくて、人の中から自発的に出てくることが大切なんです。そうしたらそれは源泉のようなものですから尽きることがないんです。バイブルも要らない。自分の中にすべてがあるんです。そしてそれは、人それぞれバラバラで良いんです。

 だから、私が書いた「『闇と光』のガイドブック」という本は、「闇」というのは「死」という意味もあるでしょうし、人が「闇」と感じてしまって怖れているようなことの問題点を書いているようなものなのですが、あくまで「ガイドブック」なんです。僕はこれでも余計なおせっかいをしていると思った。(笑)
 ガイドブックすら自分で書けばいいと思ったのですが、今の人たちにはあっても良いかなというように感じたし、私のやっている行動の正当化ではないですが、「自然から得た恵みを還元する」というナイノア・トンプソンさんの言葉が背中を押してくれたかなと思いますね。


18:00:00 | milkyshadows | |

「情熱」


ある神聖な朝に、神の島へ旅をする夢をみた。

 うまく言えないけど、
 自分の中へダイブするような感じがした。
 今まで踏み込めなかった大切な部分へ。


そう言えば、
このところ愚痴っぽかった。
苦しくて、
情熱が、虚しさの下敷きになっていた。

 人が 笑うのは、情熱があるからだ。

 人が 走るのは、情熱があるからだ。

 人が 愛を語るのは、情熱があるからだ。

 人が 夢を抱くのは、情熱があるからだ。

 人が 海を渡るのは、情熱があるからだ。

 人が 山を超えるのは、情熱があるからだ。

 そして 情熱のかぎり、人は旅をつづける。

私たちが 死よりも怖れていることは、
 ある朝、情熱を失くした自分 と出会うこと。


「頑張りましょう」と あなたが言った。
 そんな言葉で、
 命の糸は 紡がれてゆく。



17:50:00 | milkyshadows | |

20 January

「人」と「人間」

artist file "tanebito" #12 [3/4] 
MAX さん(ナチュラルヒーラー)

「人」は死なない。けれど、「人間」は死ぬ。
つまり「人」は殺されてしまった。


___今回の来日講演では、「死」についてのテーマでお話をなさっています。

 そういうつもりはなかったのですが、結果的にそういう話になることが多かったということです。
 前回は「宇宙」の話をしました。人が生きる場所としての「宇宙」は普遍的で、まちがいのないものですから、そこから話して行きました。今回は、人が生きる上で「死」というものが、誰にとっても大きなテーマとしてあると思ってお話した次第です。

___「人は死なない」ということをおっしゃっていました。

 いろいろな方たちとお会いして話をしていると、「人」と「人間」の違いに気づかなくなっている人が多いと感じました。
 今の問題、例えば日本の自殺者が世界一多い事や、地球温暖化もそうですし、親が子を殺したり子が親を殺したりというようなことは、急に最近起きたことではなくて、脈々と「人間」の中に起きてしまったことだと思うんです。
 それは、じゃぁどこから始まったのだろうか。限定はできませんが、日本で言えば弥生時代から起きてしまったのかな、と私は思います。社会が形成され、そこに遺産相続であったり、「死」が必要とされた。社会と人間の関係性を断ち、社会から葬り去る。つまり「人」は殺されてしまった。
 肉体を持つ「人」は死なない。そこに在る。けれど、「人間」は死ぬ訳なんです。「人」と「人間」の違いは何かと言うと、「間」がある、ということです。

___「関係性」ということでしょうか?

 「間」がそこにある、ということです。人同士でなくても良いんです。「人」と何かに「間」がある。それが「人間」なんです。「人」は、その人一人ですべてが完結する。その「人」がいるから、次に「人間」があるんです。それが分からなくなってきているように思いますね。
 だから、「自分を見失っている」という表現にしても良いでしょう。「人」として感じられなくなってきてしまっていて、常に「人間」として生きてしまっている。「人間」というものは実体がないんです。社会の中で「間」なんです。
 もちろん「人間」として生きることも大切です。そのために社会がある。ところが、その社会には実体がないんです。実体があるのは「人」なんです。「人」という生命が、そこにあるんです。
 要するに「間違い/カンチガイ」が起きてしまっている。
 今、人が思い悩んだり不安になったりしていることや、究極は地球温暖化であったり、すべてと言い切るつもりはないけれど、一人が抱えている問題、社会が抱えている問題、地球規模で抱えている問題の原因は、「人が死ぬ」というカンチガイから始まっていると感じたんです。

___「輪廻転生」という意味以上に、社会として「死」を定義してしまったことの問題点を指摘なさっている、と受け止めたら良いのでしょうか?

 いや。問題点だとも思っていないんです。社会として「死」を定義したのは、当たり前のことなんです。悪いことではないんです。

じゃぁ、今のように都会の中で生きるにはどうしたら良いかというと、
まず「一人で自然を感じる」ということです。


 今「輪廻転生」と言いましたが、それも言葉ありきで実体のないものなんです。もともと感じていたものを言葉に言い表したものなのだと思いますが、言葉の方が一人歩きして、実体のないものに踊らされている。無いものを考える、無いものを感じる、ということは無理な訳です。無いものを感じた気になってしまって、そこに実体のあるものに気づかなくなってしまっている。つまり「カン違い/カン・チガイ」。そんな感じがしますね。
 まず「人」ありき。まず自分なんだ、ということの本質、大切さ。それは当たり前のことなんですけど、それが感じられなくなってきてしまっている。感じる」ということは、その人の体以外では感じようがないんです。他人の眼でものを見ることは出来ないし、感じたことを他人と比較したり検証したりすることも出来ないんです。まず「人」が感じることが大切なんです。それが出来た時に、「人」と「人」との間に「共感性」というものが生じると思うんです。「人間」と「人間」の間では、「間」が多過ぎちゃう。それが「間違い/マ・チガイ」。(笑)

___その間違いは弥生時代から起きたとおっしゃいましたが、稲作の始まりが転機だったということでしょうか。

 稲作がいけないことではないんです。何が悪いということではない。そのことによって「人間」がカンチガイしてしまった、間違ってしまった、というだけのことだと思います。ただ、どこかにそうなりやすいことはあったかも知れませんね。
 自然の中に生きていた縄文時代には、自然に自生していたものを食べる生活形態だった訳で、計画生産はなかった。蓄えるということはなかったんです。蓄えると言うよりは、在るもの。この地球全部が蓄え、という感覚ですよね。ただ生えているものを、ただ採る。
 稲作というのは、稲があって、それを所有する人がいて、計画的に生産するために「効率」が生じて、役割分担から「階級」ができた。また、貯蓄できるので相続もできる。「所有」が生まれた。その区画に対しての所有権から「不動産」が生まれてしまった。そして、稲作のために自然に手を加えてしまった。
 稲作ということが、会社であったり、社会であったり、国家であったり、ということに近いかな。例えば、自動車会社が車を作るのは、お米を作るということが原点ですよね。そのシステムを、僕は否定しない。「人間」が幸福になるための制度であり「社会」であったんですから、良かったんです。けれど、まず「人」ありきだった筈が、「人」が無視されて「社会」が優先されてしまった。本と末が転倒してしまったんです。
 資本主義にしろ社会主義にしろ、賢人たちが幸福のために生み出した法ですから、それはどれでも良かった。ところが、それを運用する人たちが、「人」として生きないで「人間」として生きるようになってしまったから、おかしくなってしまった。間違ってしまったという訳なんです。
 縄文時代にそういうことが起きなかったのは、自然の中で自然と共に生きていたからなんだろうと思うんです。稲作となると、自然と分断されてしまいがちになるということです。じゃぁ、今のように都会の中で生きるにはどうしたら良いかというと、まず「一人で自然を感じる」ということです。

___一人で、、

 「感じる」ことは一人でしか出来ないんです。二人で行こうが何人で行こうが、「感じる」のは一人なんですよ。以前は、無意識に自然の中に生きていた訳ですよね。人は常に、人と関わろうとする傾向が強い。だから今は、少し意識的に「一人で自然を感じる」ようにするんです。

自然を感じることは難しいことではなくて、ただ見る、ただ聞く。
僕たちの体そのものが「自然」なんです。


 自然を感じることは難しいことではなくて、ただ見る、ただ聞く。聞こうとして聞かなくてもいろいろな音が聞こえるんです。僕たちの五感は、意識しようが意識しまいが勝手に動いてくれている。こうしているうちにも汗をかいたり、インシュリンが出たりしている。本当に、僕たちの体そのものが「自然」なんです。なのに「自然」を切り離し、感じなくなってきている。
 それで「どうしたら良いか?」と悩み始めた時に、また人がつくり出したものに翻弄されて頭で考えている。例えば、ヨガであるとか、ビーガン(菜食主義)であるとか、マクロビオテックであるとか。
 そうじゃないんです。一番欠けたのは「自然を感じる」ことなんです。とっても簡単なことなんです。お金もかからない。時間もかからない。ただ意識的に、素足で、手で、感じて欲しいということです。それは、意識的に行動を起こせば分かるということではなくて、まず「感じる」ことが大切なことなんです。

 具体的にいうと、例えば、眼で見ますよね。眼は、それを見たことで光の刺激を受けて、視床下部が働いて、神経組織のシナプスが熱を帯びて、という具合に、「感じる」ことで人の体には変化が生じるんです。自然から膨大な情報を受けるんです。この情報は生きて変化します。
 それを数値に表そうとしたのが科学者です。ニュートンは、林檎が落ちたことを、ただ見たんです。そして「何故落ちるんだ?」と考えた。そして観測して → 考えて → 理論を作って → 検証して、ということなんです。最初に、見た → 感じた、ということが大切なんです。そこが今の人たちは抜けているから、間違いが起きてしまった。そして、悩み始めてしまった。

土、川、水、海、何でも良いから「感じる」。
それを繰り返すことによって、その人の中で確実に変化する。
感じない人はいないんだから。


 僕たちは脳を使う。脳は素晴らしい機能なんですが、脳が暴走してしまった。脳が間違っちゃった。そして悩み始めた訳です。今、みなさんが悩んでいる。だから僕なんかに会いにくる。
 どういうことかと言うと、僕たちは脳があることを知識として知っています。でも見たことはありません。触れることもありません。ま、でも厳密に言えば、医学が進歩していますから、脳を切り開いて自分の脳を触ることも出来ます。それでも、見ることはちょっと難しいかな。(笑)
 月は、そこに見えて、あることは知っています。でも、厳密に言うと触れないんですよ。アポロ13号は実際に月まで行って、そこに立って触った人もいますけれど、彼は月を感じたでしょうか?
 無理なんですよ。月に触れたのは宇宙服なんです。彼は宇宙服にしか触れてないんです。人間は、そこまで行けても、結局は無理なんです。月に行けた気になっているけれど、行ってないんです。触ってもいないんです。
 だから、月は、見て、そこにあることを感じることはできても、知ることは出来ない。だけど、在ることは知っている。それは「実体」なんです。それが「脳」なんです。脳が「脳」としてある時は良かった。ところが「悩」み始めてしまった。
 「悩」という字は、「脳」の「月」が「忄(立心偏)」に変わってしまった。その「心」というものは、「死」のように実体が無いものなのに、人間が「心」と決めたことで訳が分からなくなってしまった。まだ平常心や安心のように落ち着いた「心」ならば良かったけれど、「忄」と立ってしまった。(笑)
 つまり、「脳」は実体があるんです。見て触ったりすることは出来ないけれど、そこに実体がある。ところが「心」は実体がないんですよ。だから悩んじゃった。悩んじゃった人が、今、さらに「心」を求めて心理学や催眠療法に行く。そうすると、さらに悩みが深くなってしまう。

 今、悩んでいる人たちは、宗教であったり、ヨガであったり、催眠療法であったり、と言うけれど、僕は人として会話をして、ただ僕の手を置くだけ。
 それ以上に、どなたにも常に言っていることは、「とにかく毎日、ちょっとでも良いから、意識的に、空を見て、星を見て、月を見て、そして宇宙を感じて、地球を感じて」ということです。土、川、水、海、何でも良いから「感じる」。それを繰り返すことによって、その人の中で確実に変化する。感じない人はいないんだから。(笑)
(つづく)




18:00:00 | milkyshadows | |

「真実の淵」


南の島の、
誰もいない波止場にゴロンと寝ころんで、
一晩中、星を見ていたことがあります。

 満天の星。
 天の川が、ぼやけた雲みたいに、
 星空を滲ませていた。


街に生まれ育った私にとって、
星の輝きの他に何も光るものが見えない夜なんて、
あの晩が最初で最後。

 「もしも、この瞬間に、
  背中の地面が消えて無くなったとしたら360°が星空なのに」

地平線を恨めしく思いながらも、
ただ一人宇宙に漂う自分を想像したら、
たまらない孤独感に襲われてきました。

大地に抱かれる安心に、我に返ると、
その暖かさに、
体中がまどろむように溶けて行くようでした。


私は、その時、
自分の一番内側の、
本当の真ん中をリアルに感じたような気がしています。

 そこに繋がってさえいれば、
 天も地も、前も後ろも、左も右も同じこと。
 絶対的な中心軸。

 それは、
 私に勇気と安心を与えてくれたけれど、
 同時に、
 私は孤独と恐怖を思い知らされました。


私の中心にある「真実の淵」は、
ぽっかり深くて、あまりにも遠く、
魂を連れ去るほどの、冷たい風が吹き上げてくる。

その中心をのぞき込むたびに、
私は、今も、
身動きがとれなくなるのです。



17:50:00 | milkyshadows | |

13 January

『闇と光』のガイドブック

artist file "tanebito" #12 [2/4] 
MAX さん(ナチュラルヒーラー)

むしろ、僕が与えるとすれば「闇」です。
そうすれば逆に「光」に気づく。


 こうしてヒーラーとしてやっていると、よく「自分もヒーラーです」と言う人と会うんです。そして大概そういう方は「一人でも多くの人に光を与えたいんです」と言うんです。そんなもの(光)は、僕が与えるものじゃないんです。そうしようとすることは、良くも悪くも自己顕示欲です。
 「光を与える」ということは、悩ませてしまうようなものです。白夜のように、ずっと光があったら脳が悩み始めて鬱病になる。むしろ、僕が与えるとすれば「闇」です。そうすれば逆に「光」に気づく。その人が「感じる」ことに気づかなくなってしまっているのですから、それだけ教えてあげれば良いんです。余計なおせっかいをする必要はない。太陽が光ってしまったら星が見えない。
 昼間の地球で星が見えないのは、大気があるからなんです。大気中の水蒸気に光が反射するから、青空になって星が見えない。だから、僕がしていることは、その水蒸気を取り除くようなことかも知れません。月のようにほとんど大気がない状況では、星と太陽が同時に見えるんです。地球は、大気によって守られて暮らしているというシステムですから、そのお陰で生きられる、けれど星が見えない。
 だから、地球の在り方が人間の在り方に現れている。要するに、大気=社会制度によって守られているけれど、それによって本当の関わりに気づかなくなってしまっている、ということです。宗教という枠の中では、居心地は良いけれど、星は見えなくなっている。どんなシステムも、それは素晴らしいものですし、それがなかったら僕たちは生きられない訳ですから否定はしません。けれど、本質は自分と宇宙との関わりですから、目には見えなくともそこに気づいてください、感じてください、ということを僕は言っているんです。

ただ感じる、ただ見る、ただ聞く。
4次元の波には乗れませんから。


 とてもシンプルなことなんです。それを、社会や宗教の都合で複雑なシステムになってしまっている。宗教は、教義が複雑な方が、より多くの信者が集まりやすい。社会も、複雑な方が人がまとまりやすい。それを、人間的な方法で記述しようとすると、微分積分などとなってくる。実際、太陽にとっては、微分積分なんて運行には関係ないのに。(笑)
 物理学では、3次元で解決できないから4次元5次元から数式を持ってきて辻褄を合わせている。それは嘘ではないけれど、僕は興味を持たない。4次元の波には乗れませんから。(笑)
 この地球で、肉体を持って生きることが、すごく気持ち良くて楽しくて、幸福を感じるものなんです。それを感じられない人に、「こうしたら感じられるよ」と教えてあげるには「自然を見て」と言うしかないんです。僕だったら、サーフィンをする。そういう目的を持って海へ行っても良い。でも、ただ感じる、ただ見る、ただ聞く、という根幹を忘れないことは大切です。

「自分」が無い人は、答えを外に求めてしまう。
でもそれは本当の「自分」ではないんです。


 自然科学はニュートン力学で月まで行って原爆まで作って、それで良かったけれど(良くはないですが)、哲学は迷走してしまった。分からないことを分かった気になって、幻想を見るようになってしまった。そして心理学ができて、「心」などという実体のないものを研究し始めた。
 それでニューエイジ・ブームやトランスパーソナル心理学が興って、そういう人たちが例えばネイティブ・インディアンの知識を題材に取り上げて結託していった。けれど、良心を持った本当のネイティブ・インディアンの人たちは、そんなことはやらない。「自分の感じているだけのことだから他人に伝えることではない」と言う。ハワイのカフナの人たちも、そうです。
 無闇やたらに人と関わろうとする人は、霊的に言えば憑依された自己顕示なんです。「自分」が無い人は、答えを外に求めてしまう。だから放浪の旅をしたり、占いを聞いたり、儀式に参加したりする。そしてそこで「自分」を見つけた気になってしまう。でもそれは本当の「自分」ではないんです。聞き慣れない言葉や珍しい状況だと変性意識に入りやすい訳なんです。そして、どんどん「自分」から離れて行ってしまう。

___そのような「自分探し」は、そこここで演出されています。

 一つは、商売だから。一つは、自己顕示欲だから。一つは、虚栄心だから。つまり、心が満たされないんです。
 体は満たされるんです。食欲も性欲も睡眠欲も、満たすことが出来るんです。それは良いんです。ところが、食欲は卑しいもの、性欲は淫らのもの、睡眠欲は怠け者として、それらを見下げてしまった。とんでもないことです。生きるうえで素晴らしいことなのに。
 さらに、死は穢れとして、ウンコは汚物としてしまった。僕らの食べ物はウンコなんですよ。金の肥と言われてたんです。それが感じられなくなってしまった。

「幻想」は良いんです。
ただし、それを他人に乗り移させるな、ということなんです。


 僕は、子どもの頃から星ばっかり見ていました。それから石が大好きで、気になる石を拾ってきては石としゃべっていた。(笑)いっぱいある石から、どうしてこの石を選んだんだろうって、子どもながらに考えて、そして石を見て「この石も宇宙から来たんだな」っていつも思っていた。この石は、宇宙が始まったときから、形や大きさが変わってもずぅっとあったんだな、って。でも、その行く末は分からないな、って。石を見てそう感じて考えて、言葉にはならないけれど自分もそうなんだって悟った。4〜5歳の頃です。
 小学校に入ってすぐ東京に転校して、一人っ子だし、さらに一人になる感じがあって、意識的には郷里(長州)への誇りのようなものがあった。要するに、吉田松陰や高杉晋作とか明治維新の志士たちが僕の味方で、アイデンティティだった。で、それは僕の「幻想」な訳です。
 「幻想」は良いんです。「僕、宇宙飛行士になるんだ」と夢を持つこと。それによって人は生きられる。個人の幻想は良いんです。ただし、それを他人に乗り移させるな、ということなんです。「死後の世界はこうだ」と本を書くのは良いけれど、それを他人に押し付けるな、ということです。自分がしっかりしている人は大丈夫だけれど、「自分」が無い人は同化してしまうんです。飲み込まれてすがって行ってしまう。

___すがることを求める人たちがいるのだと感じます。

 いると思います。過去の宗教がそうですから。それを僕は否定しません。
 でも、僕は違うと思うから、僕は僕でこういう話をする。その中で感じてくれる人がいたら、それが僕の喜びだったりする。自分がどう思おうが、太陽は輝いている。「ありがとう」と感謝しようが、「暑いな、この野郎!」と言おうが、太陽の輝きが一割増しになる訳でもないし、温度を下げてくれる訳でもない。
 それが「あいする」ということの本当の意味だと思います。認めるとか、許すとか、それは余計なお世話なんです。「あいする」は、ただ「合った」だけのことなんです。「愛する」は「合いする」なんです。ただ合っちゃっただけのことなんですから、何をどうしてやろうということではないんです。
(つづく)



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