Archive for 13 April 2008

13 April

絵を描く覚悟

artist file "tanebito" #15 [2/3] 
須藤 一郎 さん(美術館館長 / すどう美術館

私は、絵を見るのに知識は要らないと思っています。
知識はむしろ邪魔で、絵は体で感じるものなんです。


 この間も、「絵を見て欲しい」と言う方が自分の考えをギッシリとワープロで手紙を書いてきて、作品もDVDにして送って来てくれました。本人にしてみると、自分の作品をこういう風な考えで作ったのだから、それを知って欲しいという気持ちがあるのでしょう。それは分からなくはないのですが、あまり説明しすぎると、見る人はみんなそういう風に見てしまうんです。

___作品の見方が限定されてしまう、ということですね?

 自分の思いはあっても良いと思うのですが、それをどこまで話をして、どこからは見る人に委ねるのか。私は、作家は作品を作ったらもうその作品から手を放れ、次の日は新しい気持ちでキャンバスに向かうべきだと思います。そして作品は見る人には自由に見てもらうべきだと思います。
 俳句の「蛙飛び込む水の音」にしても、いろいろな解釈があるんです。蛙は1匹なのか何匹なのか、本当はどういう情景であったのかとかね。ですから、芭蕉が詠んだ時は自分の思いがあったのでしょうけれど、後世の人たちがいろいろに解釈していろいろな見方をしている訳です。
 ただ残念なのは、見る人の自由とは言え、日本ではなかなか見る人のレベルができていないですよね。どういうことかと言うと、私は、絵を見るのに知識は要らないと思っています。知識はむしろ邪魔で、絵は体で感じるものなんです。

___体で感じる。

 例えば、今回の展示した作品はカタチがあって分かりやすいといえるかもしれませんが、いつもはもっと抽象作品が多いものですから、見て悩んで「分からない」と言う方が多いんです。どうして分からないのかと言うと、それは、まさに「知識」で絵を見ようとしているからなんです。先ず、何に見えるのか分からないと不安になるんです。それから、有名な人が描いたのか、高い絵なのか、そういう観点からみようとする訳です。
 体で感じるというのは、見た絵に対して、自分がどういう風に感じて、伝わってくるのか、ということです。面白いのか面白くないのか、好きか嫌いか、それで良いんです。
 欧米の方々は絵を見るときこの絵は好きか嫌いかは言うけれど、「絵が分からない」とは言いません。何故かと言えばどこの家にも絵があって、美術の時間には先生が生徒を美術館に連れてきて一生懸命話をする。だから、ただ絵を描かせるということだけじゃなくて、実物の絵が家にあり、美術館で生の絵を見る、そういう環境で育っているんです。どこの家でも両親が絵を集め家中に絵がかかっている訳です。そして、その中で一番気に入った絵を子どもの独立の時にお祝いでプレゼントするんです。

___素敵ですねぇ。

 そうして、子どもたちはその絵を核にして、また新しい絵を集め始める。そんな空気がある訳です。だから、絵というものが体に沁みついている。だから「絵が分からない」とは言わない。
 ですけど、日本では立派な大人の方々が絵を「分からない」と平気で言う。知識人ではあるけれど、教養人ではないんです。

人に迎合しないで描く絵は、すぐには受け入れられないかも知れない。
だけど、そういう姿勢というのは、必ず理解してくれる人が出てくると思いますし、
そういう作家を私は求めたいと思うし、応援したいと思う。


 絵を描く人は、日本にたくさんいるんです。みんなそれぞれ思いがあって、一生懸命描いている訳です。見ているといろいろな方がいらっしゃいますが、やっぱり良い絵を描くには「覚悟」が要るんです。

___覚悟、、

 だれでも生活のことを考えたり、名前が出たいと考えたりします。しかし、それだけだと表面的にはともかく、本当の意味でいい絵につながっていきません。そうではなくて、自分が何をどうしたいのか。菅創吉の「50年後に認められれば良い」、或いは「認められなくても良い」という言葉のように、描きたい絵を描く。やりたいことを一生懸命やるかどうかということなんです。
 何かの賞をもらったりすると「これで自分の絵は認められた」と思ったりしてしまうけれど、そうではなくて「一生、完成はない」と思った方が良いんです。そういう意味で、評価は自分でするんです。褒められた時は素直に喜べば良いのですが、それは褒められただけなんです。(笑)
 例えば、作品が売れたり、有名になったりすると、画商さんもついたりして、同じような絵を描くようになってしまうことが多いのですが、他人の評価に惑わされず、自分の原点に戻る。そして、今の描き方で良いのかを問う。やっぱり、絵というのは変わって行くべきものだと思うんです。歳をとり、環境が変わる。だけど、描かされて同じような絵を描くと、楽になって新しいことが出来なくなって、有名にはなっても、絵そのものは止まってしまう。どれだけ本当に覚悟をして描いているかどうか。
 人に迎合しないで描く絵は、すぐには受け入れられないかも知れない。だけど、そういう姿勢というのは、必ず理解してくれる人が出てくると思いますし、そういう作家を私は求めたいと思うし、応援したいと思う。そんな風に考えています。

___描く技術よりも、何を感じているのかを知る訓練が必要だということでしょうか?

 絵を描く人は、絵が本業ですから絵に力を入れなくてはいけない、手を抜いてはいけない。それは言うまでもないことです。ただ、それ以外のものをどれだけやるかによって、ある限界を越えられるんだと思うんです。そこが、人間の大きさ、幅なのではないでしょうか。
 サラリーマン時代、若い人によく言っていたことは、本業の仕事が忙しくても、自分の時間を見つけて趣味でも社会活動でもやりなさい、と。それが生きる充実に繋がる訳だし、ただ朝から晩まで仕事をやっていても良い仕事ができる訳ではないんです。長時間仕事をやって充実しているという錯覚なんです。いろいろなことをやり幅の広い人間になっていれば、時間ではなく良い仕事に繋がるということです。絵を描く人もサラリーマンも、同じことのような感じがします。

「良い絵」という以上に大事なのは、人間の関係だと思うんですよね。


___「若き画家達からのメッセージ展」という企画を継続して行ってらっしゃいます。出展者の選考では、必ず作家さんと面接をなさるそうですね。

 そうなんです。銀座で10年続けてきました。
 いろいろな団体展やコンクールがありますが、絵だけで審査される訳です。展覧会に作品を送ると審査員が審査し、入選を決めたり、賞を出したします。それで、展覧会が終わったらゼロになってしまう。要するに、絵だけが一人歩きして、人間がついていない気がするんです。
 「絵」と「人間」はくっついていると、私は思います。「ヘンな人だけど絵は上手い」とか「絵はダメだけど人が好い」とか、そういう言い方もありますが例外でしょう。だから描いた絵を見れば、人もある程度分かる。したがって絵だけで選ぶのもいいでしょう。
 でも、私は、描いている人と、見る人と、我々美術に関わる人、そういう人間の関係の中に絵があるという位置づけをしているんです。ですから、展覧会をやる前に私は会っておきたい。自分の絵についての思いを伝えたい。展覧会をやる意味を話したい。そういうことで、面接をずっとやってきたんです。
 そして、展覧会をきっかけに人間の関係が続いていけばいいと考えてのことです。
 今年も11回目をやるのですが、面接をするのに小田原ではちょっと不便ですから、場合によっては電話でとか東京の会場でとも思ったのですが、山形からも大阪からも皆さん小田原まで来てくれたんです。それは嬉しかったですね。そのことで人との関係が出来るのはもちろんのこと、私がこんな所でこんな風にやっているということも、見ていただけました。
 もともとは、若い人たちを応援したい、展示の場を提供したい、ということから始めた訳です。ですから、面接の時は資料として絵を持って来てもらったりするのですが、それで選考する訳ではないんです。それはあくまで参考資料で、そこでいろいろな話をして、OKとなると、そこから展覧会に向けて新しい絵を描いてもらうんです。それはユニークだと思います。そしてその中から、「すどう美術館賞」を出して買い上げもするんです。その後、賞を出した人には副賞として個展を企画してやってあげる。
 先日は、今まで賞を差し上げた人に新しい作品を描いてもらって、企画展をやったんです。ですから「若き画家達からのメッセージ展」は、そこからがその人たちとの繋がりの出発なんです。過去10年、もちろん絵をやめてしまう人もいない訳ではありませんが、ほとんどの人たちが今でも絵を描き、何かあれば来てくれる。
 絵を描く人たちは続けていって欲しいし、繋がっていって欲しい。そして、観に来て下さる方たちや、いろいろな形で応援してくださる方たち、そういう人との関係で、こうして続けて行けるんです。
 だから、「良い絵」という以上に大事なのは、人間の関係だと思うんですよね。
(つづく)



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「カリバラ」


誕生日の翌日から数えて3ヶ月を、
「カリバラ」と言うんだそうです。
一年のうちで、
お母さんのお腹にいることのなかった空白の3ヶ月。

私たちは、
お母さんのお腹に宿されてからの十月十日は、
お母さんとずっと一緒にいた訳ですが、
この世に産み落とされれた後の最初の季節というのは、
考えてみれば、
たった一人で息をする初めての季節なんですね。

 魂が、体に馴染んで行く為の、デリケートな季節。

無理をせず、大きな変化を控え、
穏やかにやり過ごすのが良いのだそうです。
魂の居場所が、しっかりと定まるように。。

 私にとっては、ちょうど今がその時期。
 春分頃から梅雨入り頃まで。。


時々、
私はいったいどこから来たのだろう、と
遠く耳を澄ませて、思いを馳せることがあります。

 この宇宙は、「無」から始まった。

深い夜に、静かに目をとじていると、
そのビッグバンの響きが、聴こえてくるような気がする時があります。
誕生の衝撃波は、
この身ばかりか 宇宙の果てまで響いてる。

 それは、
 くだけた波が ちいさな泡へと分かたれて行くような、
 シュワシュワとはじけては消えて行く 真夏のサイダーのような、、
 私たちは、
 そんな存在なのかも知れない、と思う。
 __残響が刻印された泡沫。

そう考えると、
人生は「無」へと帰る旅なのかも知れない。

けれど、こうして息を吸うと、
生命の記憶は、一息ごとに新しくなる。
泡のような囁きは、一息ごとに増幅されて、
それは、
永遠に響き合うシンフォニーのように、私には聴こえます。


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