24 February

ドキュメンタリーの力

artist file "tanebito" #13 [4/4] 
鎌仲 ひとみ さん(映像作家 / 最近作『六ヶ所村ラプソディー』

単純な「記録の羅列」ではなくて、
作家が介在して、物語を伴った「ドキュメンタリー」になるということです。


___「ドキュメント」と「ドキュメンタリー」は違う、というお話をされていました。

 映像の作り方としては、「いろいろな人の意見をその人たちが語る」という語り方で、私が押しつけないというような作り方をしています。その作り方自体が作家としての私の意図だし、マスメディアが取り扱わないような現場にわざわざ行って映画化するということ自体も私の意志であり、作家としての意図なんです。そういうものがあって初めて、単純な「記録の羅列/ドキュメント」ではなくて、物語を伴った「ドキュメンタリー」になるということです。
 ただ自動的に、そこにある物や人に出逢って撮っていけばドキュメンタリー作品が出来るのかと言ったら、そうではない。作家が介在して、作家が「こうしよう」「こういうものを作ろう」と、大きなコンセプトや伝えたいものが無ければ、「ドキュメント」は「ドキュメンタリー」にステップアップしないと思っています。

___取材対象の方には、問題に対して賛成派/反対派の方々がいらっしゃいます。

 賛成/反対という二元論ではなくて、それを超越して撮っていかないと今までと全然変わらない訳ですよ。両者を別々に撮って行って、それを一つの作品の中に入れるというだけでも新しいのですが、こちらの価値観を両者の対立だけに執着させているだけでは次に行けないんです。それを超えるような視点を持たなくてはいけない訳なんです。
 「賛成派/反対派」と言うのではなくて、岡山さん、小笠原さん、上野さんという「個人」として私は撮っているんです。「賛成派」と言ってもグラデーションがあるんですよ。そのグラデーションをマスメディアは無視して、ステレオタイプに「賛成派/反対派」としている訳です。そうではなくて、そこにいる「個人」の、本当に具体的でリアルな存在に出会って、それを見せて行くという考え方です。
 たしかに「賛成派/反対派」というのはありますが、一人一人が抱えている生活や、人生の事情というのは違いますからね。それを無視しないようにしているんです。それが、その人たちに対する尊重というか尊厳ですよね。

___そのような超越した視点を持つためには、どのような意識を持って判断して行ったら良いでしょう?

 それが「メディアリテラシー」です。自分の意識を開いて、相対化して行くということです。良い悪いではなく、状況を俯瞰して見る。
 世の中には矛盾がある訳ですよね。一つの事に対して、赤だったり白だったり黒だったりと言う。それで、それを互いに言い合って膠着して埒があかない状況というのが、世の中にはいっぱいある。その全体を遠くから見た時に、それを支えている、そういうことに事態を持っていった大きな原動力のようなものが見えてくるんじゃないかなぁ、と思っているんです。
 また一方で、そういう人たちの中に分け入っていくことで、マクロ的な視点とミクロ的な視点を同時に持ち続けて行く、ということです。

___先入観を捨てる、ということでしょうか?

 もちろんそうなのですが、先入観を捨てただけではそうはならないと思います。自分の中にモニターがいくつもある、ということですね。

___多角的、多面的に、、?

 それを統合して行く何か、というものが必要ですけどね。
 私がマクロ的視点とミクロ的視点を行ったり来たりする中で見えてくる、それは、私個人がそう動くことで見えてくる「世界観」ですよね。その世界観というのは、実際に現場に行って、具体的に人にぶつかって行って、現在進行形で起きている問題に自分がまみれて行かないと見えてこないものだろうし、巻き込まれないと見えないものだろうと思います。
 そういう体験を、自分を通過させて出して行くということなんです。それが映像になって出てくる訳です。

___一旦自分を通過させるということによって、作者の世界観が投影されて行く。

 だから「ドキュメンタリー」なんです。作家がいて初めて成立する「物語の物語られ方」ですよね。「物語を物語る作法」というか。。

美学? 無いんですよ。(笑)
一番大事なのは美学ではなくて、
自分が取材をさせて頂く人たちに対する「尊重」や「尊敬」なんです。


___鎌仲さんをご紹介するにあたって、肩書きは何と、、?

 肩書きは一応「映像作家」ということにしています。

___「作家」ということは、「作品」を作ってらっしゃるということになります。

 そうですね。私は「ドキュメンタリー」は「作品」だと思っています。

___作品としての「美学」などはございますか?

 美学? 無いんですよ。(笑)
 無い。無いなぁ。。

___とは言え『六ヶ所村ラプソディー』『ヒバクシャ』を観ていると、夕陽の空やお花畑の風景など、美しい映像が時折挿入されています。

 美しさねぇ、、
 何かありきたりの美しさに対して抵抗があるんですよね。「ステレオタイプは嫌だな」って、美学になるのかなぁ、、? 誰でも美しいと思うようなものを撮っちゃうと、恥ずかしい。(笑)
 新たに、それまで美しいと思ったこともないようなものに対して「あ、すごくキレイだった」って言ってもらう方が良いなぁ。。それまで偏見を持って「嫌い」と思っていたものの中に、「素敵」とか「愛すべき」とか「こんな惹かれるものが在ったんだぁ!」っていうような、観る人の中の思い込みが壊れると言うか、打ち破ると言うか、或いは不要になってしまうと言うような、そんな化学反応を起こさせるような映像が良いなぁ。。と思っています。(笑)
 その化学反応というのは、その人その人によって感じ方や反応の起こし方が違うんです。それを、必ずこういうふうに、とはしたくない。観た側の方から引き出されてくると言うか、それまで自分の中にあったのに気づかなかったものが出てくると言うか、そういう欲望のようなものは確かにあります。
 けれど、ドキュメンタリーで一番大切なのは美学ではないと思っています。一番大事なのは美学ではなくて、自分が取材をさせて頂く人たちに対する「尊重」や「尊敬」なんです。その人たちを格好良く撮るために本来ではない形にしたりだとか、映像の為にその人たちの在り方を曲げて見せるとか、それは美しくないと私は思っています。

___それは「リアリティ」や「ライブ感」ということでしょうか?

 リアリティ、、、単純にリアリティということだけではダメですね。リアリティは「必要条件」ですが、それだけではダメですね、きっと。

___物事をありのままに捉えるということは、量子論的矛盾を抱えた難題でもあります。観測するという事自体が、対象物を操作してしまう。そんな葛藤をお感じにはなりませんか?

 それは、そのままを映るようにしています。その人たちに出会うというということが、例えば私がそこに空気のようにいるのではなく、常に私が「うんうん」とか「はい、はい」とか言いながら、いつも映像の中に私のプレゼンス/存在感というようなものが出ている。そうしながら、マズイことを言ったりNGな雰囲気になったとしても、それをそのまま見せている。
 だから、そこに機材を置くことをお互いに了承して初めて関係が出来て映像化される訳だから、カメラがあるから映るという事実を下手に隠さない方が良いと思ってやっています。隠し撮りじゃないんだから、そのことを抜きには語れませんから。隠し撮りは「ドキュメンタリー」ではないです。

___それにしても、取材された方々は皆さん見事にお話をされてますね。

 いやぁ、何時間も撮った中でちょっと喋ったところを編集しているんです。そこは実体とは違う。(笑)

___イラクの子ども達の笑顔も、とても素敵です。

 『ヒバクシャ』の映像ですね。それは何回も何回も通って慣れてもらって、こちらのことも知ってもらって安心してもらわないといけないですからね。お互いに名前も知って、普通に出会って、人と人としての関係性がないとカメラを回せないですよね。

___新しい企画などはお考えですか?

 今『六ヶ所村通信 no.4』を作っています。普通、映画監督さんは完成して本当にキレイになったものしか見せない。NGは全部抜いて途中なんて絶対に見せない。でも、途中から見せて行こうということで、ビデオレターを作って出しているんです。「その後の六ヶ所」ということで、映画を作っても長くなるので、その第4弾になります。2月末には完成させる予定です。

___「核問題」の他には、注目なさっているテーマがありますか?

 もともと「核」に興味があった訳ではないので、『ヒバクシャ』を撮る前に撮ろうと思っていたテーマがいくつかあります。医療や、食べ物のことですね。

___「医療」というと、どのような観点のテーマなのですか?

 人間が「死ぬ」ことを、今の西洋医療は「敗北」だと捉えているんですよね。でも、人間ってみんな死ぬじゃないですか。それなのに、例えば癌で死んだということを医療の敗北だ、負けちゃった、残念だ、と勝手に言っている。「でも人間の死って敗北なのかなぁ?」って。
 そういうふうに医療が人間の命を捉えていることに違和感をずっと感じていて、だから、人間が生きて死ぬということを全部ひっくるめて捉える医療の考え方を提示できたら良いなと思っています。

___取材は進んでらっしゃるのですか?

 いいえ。今は『六ヶ所』にどっぷりですね。(笑)


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17 February

メディアリテラシー 〜 メディアを読み解く力 〜

artist file "tanebito" #13 [3/4] 
鎌仲 ひとみ さん(映像作家 / 最近作『六ヶ所村ラプソディー』

「情報」というものは如何にして作られて、何を目的にしているのか?
情報というのは人を操作できるものなんですよ、使い方によって。
怖いですよ。暴力的だし。


___今日は東京工科大学へお邪魔して、鎌仲ひとみ監督にお話を伺っています。

 ようこそ。(笑)

___こちらではどんな講義をなさっているのですか?

 一つは、「メディアリテラシー」をドキュメンタリーということを媒介に教えるということと、社会問題を見る視点を養うこと。もう一つは、自分で映像作品を作って発信するためのスキルを身につけることの指導をやっています。

___「メディアリテラシー」という言葉は最近目にすることが多くなって来ましたが、どんなことなのでしょうか?

 私たちは「メディア」というものの中に囲まれて私たちは生きています。TVもラジオも、新聞もインターネットも、その中の広告もブログもそうです。道を歩くといろいろな看板もありますが、それもすべて「メディア」なんです。そうして種々雑多なレベルの情報の中に囲まれて生きているのですが、ではその「情報」というものは如何にして作られて、何を目的にしているのか? そのことを学ぶことが「メディアリテラシー」なんです。端的に言えば「文字が読み書き出来るようにメディアを読み解く力」のことです。
 今の時代は「メディア」というものを見て「これは絶対買った方が良い」って、それまで持ってた使えるものを捨てて買ったりする。それは「プロパガンダ」ですよね。必要のないものを必要だと思わせて買わせる技術というのが広告プロパガンダです。それで大量生産、大量消費、大量廃棄ということをやることによって、今の経済は廻っている。
 だけど、そういう商業的なプロパガンダの他に公共放送というものがあります。普通の人は、公共放送が言っていることは一定の信頼を持って良いものだと思い込んでいる訳です。それは公正に公平に公共的な常識に基づいて報道されているんだろう、と思っている。でも、必ずしもそうではないんです。限界があるんです。意図してそうしている時もあるし、意図せずにどうしてもそうなってしまうような宿命的な構造というか弱点を持っている。それを頭にインプットしておかないと、流されて来る情報を自分の中にフィルターを通さないで入れてしまう。
 だから、本当に自分の頭で思考して言っているのか、TVでそう言っていたからそのまま言っているのか、ということが曖昧になっている。そこをキチンと区別つけるのが「メディアリテラシー」なんです。

___メディアを読み解く力。。

 例えば「郵政民営化、良いんだよね」と誰かが言っていたとします。「それは誰が言っているの?」ということです。或いは、最近で言うと「憲法9条」。「憲法9条、変えた方が良いんだよね」って。誰が言ってるの?「あなたは何故そう思うの?」「だってTVで言ってたじゃない」(笑)
 TVの中で、10人出てきて8人が「憲法9条変えた方が良いよね」と言ったら、皆きっと「ああ、そうだ。変えた方が良いんだ」という風に思う訳ですよ。でも、それはTVの中の誰かが言っていたことで、自分で考えたことではないんです。自分で集めた充分な情報を、自分で取捨選択して判断している訳ではないんですよ。「だって有名なあの人が言っていたから、今あれが流行なのよ」とか、そういうことです。
 そんなことをやったら、世論とか選挙とか政治とか簡単に動かすことが出来る訳ですよ。現代の戦争は、それに気がついて「情報戦争」だと言っているんです。ブッシュが「やっぱりイラクを攻撃するしかない!」と言った時に、メディアがこぞって「そうだ!そうだ!」とやって、反対した人をバッシングした。そういうことを見抜けないと、また同じ轍を繰り返してしまう。操作されていることに気がつけない自分がいる訳です。
 かつてヒトラーが「ドイツは優秀な、純粋なアーリア人(の国)だ!ユダヤ人は劣等だから迫害して良いんだ!」などとやった。でも、当時ドイツ人はそんな馬鹿げたことを信じて、仲良く暮らしていた隣人のユダヤ人が殺されても「仕様がないんだ」と思った。それほど、情報というのは人を操作できるものなんですよ、使い方によって。怖いですよ。暴力的だし。
 そのことを、自分を守るために知っておかないと。

自分の立ち位置と言うか軸を持たないといけないのですが、
同時にそれを開いて行くことが必要です。
そういう姿勢って、訓練が必要ですよね


___情報には送り手と受け手がいて、受け手としての力を養おうということですね?

 そうです。
 でもその力を養うには、発信する立場に立てばすぐ分かるんです。例えばブログを書いたら、ヒット数を多くしようとしたらいろいろな工夫がある訳です。キャッチーにしたり、明るく華やかにしたり、人を惹き付けるいろいろな方法がありますよね。作る側に立って初めて、必ずしもすべて公平に同等でフェアな形で情報が出されているのではない、しかもそのように情報を出すこと自体が実はすごく難しいことなのだ、と分かってくる訳です。

___ 以前読んだ本に「20世紀は川の時代だった」という表現がありました。情報は、上流へ行って流せば自動的に下流へ流れた。でも「21世紀は海の時代だ」と。この海は地球の裏側とも繋がっているけれど川のように上流下流はないから、情報を発信するためには自分で潮流を作らなくてはいけない。受け手も、泳ぎ方を学ばなくてはいけない。

 オーバーチョイスになりますよね。あまりにもいろいろなものがあり過ぎて選択できない。どれをどう選んだれ良いのか分からない。だから、情報の海の中で「こっちだ!」と見極める力というのは、どうしても必要です。

___先ず自分の中にアンカーが落とされる必要がありますね。

 自分の立ち位置と言うか軸を持たないといけないのですが、同時にそれを開いて行くことが必要です。
 人間の思考って、すべてそのように外から来たものによって決められているんですよ。自分はそれを思い込んでいる訳です。でも「それは誰が言っているの?」と、頭の中をかき分けて行くと「あ、半年前に読んだ本に書いてあった」って。それが思い込みだということすら自覚していない。
 何か全然違う考え方に出会った時に、そういう考え方もあるということに対して自分はどう向き合うのか。そういう姿勢って、訓練が必要ですよね。だから、カナダでは小学校の時からメディアリテラシーを教育しています。

___具体的にはどうのような教育なのでしょう?

 それはいろいろあるのですが、マニュアルではないんです。結局、思考する能力。人から何かを言われた時に、それをキチンと聴いて、自分の中で咀嚼して、それについて自分の意見を言える人間になる、ということがメディアリテラシーの基本なんです。思考を深めるスキルを身につけるということです。

___ということは、マスメディアに対してというレベルだけでなく、人と人との関係性についてのことでもありますね。

 そうです。コミュニケーション能力がすごく必要です。

客観報道なんてあり得ませんよ。主観報道を客観的にやっているだけです。
絶対的な情報ではなくて、自分も相対化して見ることができるようになるのが最終目標ですね。


___大学の講座ではどんなアプローチで講義されているのでしょうか。

 気になっている社会問題でも、知らないことってたくさんあるんですよね。例えば「裁判員制度」。聞いたことあるけど、どういうことか分からない。それで「じゃぁ裁判員制度について皆で調べてみよう」と言って、調べさせるんです。そうすると皆インターネットで簡単に調べて来ようと思うのですが、「それは最後。それ以外の方法で調べて来なさい」と。調べるとなるとすべてメディアでしかないんです。私たちはメディアでしか伝えられないんです。だから「伝えられなかったこと」は「無いこと」になっちゃうんです。
 一番大事なのは「第一次情報」、直接自分が取材をするということなんです。例えば法務省に電話してみよう、実際の裁判官に会ってみよう、或いは弁護士の人に会って裁判員制度をどう考えているのか聞いてみよう、裁判の傍聴に行って実際に裁判がどう進むのか見てみよう、とか。そんなふうに実体験をすることから、全然違う情報と知識が自分の中にインプットされる。それは「メディア」ではないんですよ。
 実体験はメディアではないんです。その人だけの経験だから、その人のものになるんですよ。例えば1本のペットボトルを立てて、一人一人がどういう情報やイメージを持っているのか「知っていることを言いなさい」と言うといろいろな違ったことを言う訳ですよ。(笑)実体と、一人一人が思っていることとがズレを持っている。そのズレをどう認めて、且つ自分の中のズレを自覚するということです。
 それでまた帰って来て報告をさせる。そうすると全員の視野が広まっているんです。そういうことをやらせるんです。

___とすると、「メディア」というのは「実体験」のための時間や労力を買っているようなものなのですね。

 そうなんですよ。
 でも自分が実体験をして、そのことを人に伝えようとした時にどうでしょうか? 主観が入らないか? 絶対入りますよ。だから「客観報道が在る」という思い込みを、先ず打ち砕かないといけないんです。客観報道なんてあり得ませんよ。主観報道を客観的にやっているだけですよ。(笑)
 だから「あぁそういうものなんだ」と分かった時に、もっとリラックスして、絶対的な情報ではなくて「たかがそんなものなんだよな」という相対化が出来る訳です。

___では、自分が送り手になった時にも、伝え方の客観性を検証するための相対化が必要ですね。

 そうですね。自分も相対化して、自分を相対的に見ることができるようになるのが最終目標ですね。

___誰もが受け手であり、送り手でもある。

 発信してるんですよ。人間はそれを見て読み込むことをやっているんです。「今日の上司の雰囲気は?」とか、体全体で発信されているものがありますからね。「あ、今日はマズそう」とかね。(笑)
(つづく)



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18:00:00 | milkyshadows | |

『六ヶ所村ラプソディー』あしがら上映会



【上映日】
2月23日(土)

【上映スケジュール】
13:30 〜 15:30 第一回上映
15:40 〜 16:00 ミニコンサート
16:15 〜 18:00 非電化製品 発明家 / 藤村靖之氏による講演会
18:15 〜 20:15 第二回上映

【会場】
小田原 川東タウンセンター マロニエ
小田原市中里273-6   0465-47-1515

【料金】
前売:800円
当日:1000円(学割500円)

【問合せ】
『六ヶ所村ラプソディー』あしがら上映会実行委員
ちえのわハウス 0465-49-6045
志村 俊介 090-6190-7694

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鎌仲ひとみ監督からのメッセージ
〜『六ヶ所村ラプソディ』あしがら上映会によせて〜


___六ヶ所村では、核燃料再処理施設の本格稼働が差し迫っているようです。

 差し迫っていたんですが、延期になっているんですよ。1月1日に事故があって、その影響で遅れ込んで、2月の稼働と言っていたのですが「2月は無理だろう、今年度中も無理なんじゃないか」と。でも、日本原燃はそういうことを認めてはいませんが。

___一般のメディアでは、なかなかそういう情報に触れる機会がありません。
 
 マスコミが報道しませんからね。日本原燃はHPで発表するし、地方新聞は経過報告のようなことをやっているんです。でもマスコミを通じて出て来る情報というのは断片です。「いついつ本格稼働します」と言われても、普通の人はその意味が分かりません。
 「ドキュメンタリー」というスタイルで目指していることは、その全体像が分かって、尚かつその本質が分かるということです。自分にとってどういう関係があるのか、どれくらい重要なことなのか、全体像と一つ一つが分かって初めて自分と結びつけて考えられるし、想像することが出来る。でもマスコミがそういう伝え方をしないので、皆知らないし、興味も持てない。そういう状態だと思います。 

___なるほど。こうしたドキュメンタリー映画を自主上映して皆で観るという企画自体が、その先の展開を人々に考えさせるための仕掛けでもあるということですね。

 そうなんですよ。だから一人で観ちゃダメなんです。一人で観たら落ち込むだけ。(笑)
 自主上映は、人と人が繋がる。人の想いと想いが繋がったりする。それを企画して実行しようとする人たちが、地域の問題に直接向き合ってぶつかってみる良い機会なんです。

___2/23に、小田原マロニエで『六ヶ所村ラプソディー』の上映会があります。これから観る方へ、メッセージをいただけますか?

 長い映画なので、リラックスして観てください。(笑)
 どちらかと言うと、答えがあるというより思考を促すように作った映像なので、TVとはずいぶん違うので、「自分から参加して観る」という感じでしょうか。

___参加して観る、、

 与えられるのではなく、自分から一歩踏み出して観る。そうして観れば、見方がすごく変わってくるんじゃないかなぁと思うんです。
 「自分に関係な〜い」ということではなく、「自分とはどう関係があるんだろう?」と踏み込んで観ていただけたら良いと思います。

(08.1.22) 東京工科大学 鎌仲研究室にて


17:50:00 | milkyshadows | |

10 February

『エンデの遺言』

artist file "tanebito" #13 [2/4] 
鎌仲 ひとみ さん(映像作家 / 最近作『六ヶ所村ラプソディー』

ドキュメンタリーはすごく多様で、
私のスタンスは、私が押しつけるのではなく、
観る人が自分で考えて択べるような素材を提供する、ということです。


___六ヶ所村では、核燃料再処理施設の本格稼働が差し迫っているようです。

 差し迫っていたんですが、延期になっているんですよ。1月1日に事故があって、その影響で遅れ込んで、2月の稼働と言っていたのですが「2月は無理だろう、今年度中も無理なんじゃないか」と。でも、日本原燃はそういうことを認めてはいませんが。

___一般のメディアでは、なかなかそういう情報に触れる機会がありません。
 
 マスコミが報道しませんからね。日本原燃はHPで発表するし、地方新聞は経過報告のようなことをやっているんです。でもマスコミを通じて出て来る情報というのは断片です。「いついつ本格稼働します」と言われても、普通の人はその意味が分かりません。
 「ドキュメンタリー」というスタイルで目指していることは、その全体像が分かって、尚かつその本質が分かるということです。自分にとってどういう関係があるのか、どれくらい重要なことなのか、全体像と一つ一つが分かって初めて自分と結びつけて考えられるし、想像することが出来る。でもマスコミがそういう伝え方をしないので、皆知らないし、興味も持てない。そういう状態だと思います。

___「ドキュメンタリー」ということは、それを観る方々に判断の為の素材を提供する、ということでよろしいのでしょうか?

 私はそう思っています。
 ドキュメンタリーはすごく多様で、私のようなものもあるし、もっと自分の感性や考えをガーンと出すものもあります。それは作り方のスタンスによって違うと思います。私のスタンスは、私が押しつけるのではなく、観る人が自分で考えて択べるような素材を提供する、ということです。
 でも、TVではそういうことは出来ない。私はTVの番組を作ってきましたが、やはり一つ一つを説明しなくてはならないし、ある一つの方向へ結論を持って行くということをやらないと成立しない。投げっ放しは許されない。

___私自身もこの『soulbeauty.net』はローカル局だからこその番組だと思っていますが、届いているかどうかは受け手の咀嚼力に大きく委ねられているように感じています。

 私も作っている時、TV業界で長年やってきたスタッフたちから「こんなのじゃ伝わらないよ。投げっ放しだし、どっちかハッキリさせた方が良いだろうし、もっと説明しなくては」という意見はずっとありました。だから、説明不足で分からないのではないかということに関しては両極端です。
 実際に上映してみると、普通の人の理解力や、共感する力、読み込む力というのは、モノ凄い! 私が意図した以上に深く読み込んで、分かってくれている。先日も高校生に観せて感想を書かせたら、すごく的確なんですよ。だから、意外に伝わっているんですよ。その実感は上映すればするほど高まって行って、「説明しないのが良い」と皆さん言うし、だんだん確信になって行って「あぁ、伝わっているな」と思うんですよ。

誰が現場へ行って、誰の視点で取材をし編集をし、
作品を貫いている考え方に、誰が責任を持っているのか?


 だけど一方で、TVは全部答えが用意されているし、良く説明されているから、それにドップリ浸かっている人からすれば辛い。そういう人たちは、そもそもこういう上映会には近づいて来ない。
 だから、私の映画を観ている人たちというのは、「今私たちが生きているこの世界がこのままではいけないな」と思っていたり、ある程度の問題意識があったり、興味が無くても別のところに感性がある人たちなんじゃないかという気がします。絶対数は多くないし、私も100%を目指している訳ではないんです。
 マスコミで作っていた時は、テレビで600万人が観ていました。だけど、その人たちがそれを観ていたからどうだと言ったら、ただ放映していただけです。でも、上映会はそうではないです。お金を払って映画を観に来て、2時間観て、見終わった後に主催者や私やゲストの話を聴いて、また別の情報をもらって、何かそこで出合いがあったりしながら、「じゃぁ自分は何ができるのかな?」ということを考えたりする。そんなことをTVの視聴者はやりません。だから、多くの人たちが見れば深く伝わっているのかと言ったら、そうじゃないんじゃないかな、と思います。

___だからこそ、自主制作/自主上映という手法なのでしょうか?

 手法と言うか、こういう形でやれているマスメディアの現場もあると思うんです。
 例えばイギリスのBBCやフランスのテレビ局というのは、ドキュメンタリー番組の枠の中で作家の名前を明らかにして放送します。だけど私が作ってきたNHKは「これはNHKが作っています」とする。「誰が現場へ行って、誰の視点で取材をし編集をし、作品を貫いている考え方を、誰が責任を持っているのか?」ということを、「NHKでございます」と言う。だから、そこに個人の存在はかき消されてしまう。責任の所在が全部NHKになってしまうと、現場で作っている私のようなディレクターの立場の者は、自分をどこで表現するのかということを奪われて行ってしまうと思うんです。
 観る側も、なんとなく雰囲気で「メインストリームの意見はこうなんだな」と、「NHKが言っている」と捉える訳です。

___ブランド力のようなものでしょうか?

 ひとつの権威や信頼性を確立した「NHK」が言っている、という裏付けはありますよね。
 私はその裏付けはありませんが、それよりも何よりも「誰からお金をもらって作っているのか?」という意味で、やはり自主制作はスポンサーの意向を気にしなくて良い。番組の内容がスポンサーにとって不利だから、というようなバイアスが働くのだとしたら、それは公共性を損ねていますよね。でも、公共放送であるマスメディアでは、実はそういうことがたくさんある。

『エンデの遺言』


___『六ヶ所村ラプソディー』では核問題ですが、その他、医療、地域通貨、メディアリテラシー等々、幅広いテーマを扱ってらっしゃいます。テーマはどのように出合っているのでしょうか?

 全部、芋づる式なんです。一緒くたに入っているんです。その都度々々、ひとつの作品を作るとその中で出合いがあって、また私の興味が様々で、その時々の興味の所へグーッと傾いて行くんだろうと思います。
 地域通貨を日本で初めて紹介した『エンデの遺言』(1999/NHK,グループ現代)という番組を作った時は、いきなり雨後の竹の子のように日本中で地域通貨を使う人たちが現れて使い始めたのですが、地域通貨でその問題を解決できたのかと言えば、解決できないまま今日に至っているんです。
 その問題は何かと言うと、地域経済です。自分たちが住んでいる地域の経済がどんどん疲弊して行って、何十年もやっていた豆腐屋さんや八百屋さんを閉めなきゃいけない。シャッター通りになる。それで、郊外に大きな店が出来る。まん中に年寄りが取り残されて、みんな大きい店に行く。そしてそこでお金を使う。そうすると、そういう大資本の店は本部が別の所にあるから、お金は全部そこへ吸い上げられて行くんです。
 それで、儲けたお金で会社は何をするのかと言ったら、従業員にも払いますが、事業を拡大する為の投資や、グローバルな経済の中で投機をするんです。つまり、例えば小田原市の人が使ったお金は、小田原市の外へ出て行って、小田原市の人たちの為には戻ってこないんですよ。出て行ったところで、何に使われているか分からなくなっちゃうんです。ブランドとして純粋なパルプを使ったトイレットペーパーを作る為に熱帯雨林をバサバサと伐るのに使われたとしても、分からないんです。
 だけど、豆腐を買う時に商店街の豆腐屋さんで買うと、豆腐屋さんが儲かる。豆腐屋さんは、テレビが壊れたら、豆腐を売ったお金で地元の電機屋さんからテレビを買う。そうすると地元の電機屋さんにお金が廻る。つまり、小田原の人たちのお金が地元の人たちの間を行き来する。そのことで経済が廻り、人々の生活が支えられ、豊かなサービスとコミュニケーションと、モノとモノが交換されて、街の中に活気が持続する訳です。それが、そうじゃない所へお金を使うことによって、どんどん吸い込まれて空洞化しているんです。だから、地域経済を立て直す為に自分たちのお金を作ろう、というのが地域通貨の運動だったんです。でも、いろいろなことがあって上手く行っていないんです。
 『六ヶ所村』は確かに核や放射能の問題なのかも知れませんが、もし六ヶ所村に出稼ぎに行かなくてもアベレージな生活を維持できるような産業があったなら、核燃料再処理施設を受け容れなくても済んだと思うんです。

___そういうことですね。

 問題は複雑です。
 「私たちが使うエネルギーをどうするのか?」という問題と同時に、そうした危険なものを受け容れなくてはならない地域の人たちにシワ寄せが行っているのは何故かと言ったら、その地域にその人たちが食べて行く産業が無いからなんです。では「なんで産業が無いのか?」と言ったら、日本政府が漁業や農業をやっても食べれないような政策をやってきたからなんです。

___なるほど、、

 そうしたことを一遍に解決するにはどうしたら良いかと言ったら、『エンデの遺言』のミヒャエル・エンデ(Michael Ende, 1929.11.12〜1995.8.29,ファンタジー作家,ドイツ)は「すべての根源にはお金がある」と言ってるんです。お金が悪さをしている、と。お金を使い続ける限り、お金を求め続ける限り、問題は膨れ上がって行って「やがて人間は、自然から手酷いしっぺ返しを受けるだろう」と。そう言ってエンデは死んだんです。
 そのしっぺ返しは、いろいろな形で私たちのところに返って来ていると思うんです。ずっと進行してきたことが、目に見える形になってきたんだと思います。取り返しのつかない所まで来てしまったのかも知れません。
 だから作品を作る時には、底辺を流れるものがずっと同じなんですよね。
(つづく)


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03 February

『六ヶ所村ラプソディー』

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鎌仲 ひとみ さん(映像作家 / 最近作『六ヶ所村ラプソディー』

今は大丈夫かも知れない。
でもその次の世代になった時に、もう放射性物質はお金を生まないんです。
それどころか汚染は蓄積して行く訳です。


___ 『六ヶ所村ラプソディー』の中で印象的だったことの一つは、六ヶ所村で核燃料再処理施設を受け入れる賛成派の方も反対派の方も、同じ言葉をおっしゃっているということです。「次の世代のため」なのだと。

 「次の世代のために」「子ども達のために」と言った時に、それが自分の息子の世代なのか、それとも7世代後のことなのかということでは違うと思うんですよ。私は、推進派の人たちは今目の前にいる子ども達が良い生活をする、より経済的に高い生活をするということを言っているんだと思うんです。でも、農業者の人たちが言っているのは、今の子ども達、また次の子ども達、そのまた次の子ども達と、彼らが守りたいものがずっと受け継がれて持続して行く、そして子ども達を生かし幸せにして行く「何か」を大事にしている訳です。
 推進派の人たちにとっては「経済的に豊かな生活」、それは今の目の前にいる子ども達くらいまではそうなると思います。今は大丈夫かも知れない。でもその次の世代になった時に、もう放射性物質はお金を生まないんです。お金は生まないけれど毒はある。それどころか、何十年か操業するごとに放射性物質が出てくることによって汚染は蓄積して行く訳です。10年後、20年後、50年後、汚染がある程度まで溜まった時に、たとえ経済的に豊かに暮らしていたとしても、そのリスクを抱え込むということは、果たして遺伝子を傷つけられずに次の世代をまた無事に健康に産んで幸せに暮らせるのか。「持続可能」というキーワードで考えると、どっちが持続可能なのでしょうか?
 エネルギーを使い続ける。これだけ必要だから、それなら原子力で作れば良いじゃないか。そんなふうに「欲望に合わせる」ということをやって行って今日のような事態になっている訳だから、やっぱり同じ言葉を言っているようでも内実は違うんだと思います。

___判断の基準となるタイムスケールが違うということでしょうか。

 そう、タイムスパンが違いますよね。
 でも人間のタイムスパンは短いから、やっぱり目の前の人が大事なのはもちろんです。目の前の生活が成り立たないのであれば、10年先20年先よりも今の生活が大事だと言うのは、誰しもそうだと思うんです。そういう意味で、そういうことを言っている人たちがオカシイとは言えないだろうと思うんですよね。

___タイムスパンの話と繋がるのですが、近頃よく環境問題などに関して「今すぐできる10のコト」というような類の提言を目にすることが多いのですが、「今すぐ」という発想自体が本質から外れて行ってしまいやすい発想なのかも知れませんね。

 そうですね。構造が深く変わらないと、事態は変わらないと思います。付け焼き刃でやっても大きくは変わらない。

自主上映は、人と人が繋がる。
それを企画して実行しようとする人たちが、
地域の問題に直接向き合ってぶつかってみる良い機会なんです。


___その辺は何かご提言がありますか?

 それは、私が映画を作っている時は答えが無くて、上映会をやる度にそこの人たちが考えるんです。
 このリーフレットは八ヶ岳での上映会の人たちが考えたものですが、「石油や原子力に頼らず、地球と共生できる道を選びたい」とあります。石油も無くなるしウランもなくなってしまうのですから、節電するとかしないとかではなくて持続可能な、この地球が再生産可能な量でどのようにしたら自分たちは暮らして行けるのか、ということを皆で考えたんですよ。地球をタマネギに喩えた絵を描いて、カルタを作ったんです。中を食い潰したら腐っちゃうから、タマネギの皮の上だけで暮らす工夫をしなくちゃいけないんだよね、って。

___なるほど。こうしたドキュメンタリー映画を自主上映して皆で観るという企画自体が、その先の展開を人々に考えさせるための仕掛けでもあるということですね。

 そうなんですよ。だから一人で観ちゃダメなんです。一人で観たら落ち込むだけ。(笑)
 自主上映は、人と人が繋がる。人の想いと想いが繋がったりする。それを企画して実行しようとする人たちが、地域の問題に直接向き合ってぶつかってみる良い機会なんです。長年ずっとその地域で平和や環境や保育や農業のことをやってきたようなグループが寄り集まって一緒に上映会をするパターンが多いのですが、その人達が『六ヶ所村ラプソディー』を観に来てください、と地域の人に呼びかける訳でしょ? そうしたら「何の映画なの? 六ヶ所村って何?」って聞かれる訳ですよ。「観たら何か良いことがあるの?」って。そうすると主催者は考えなくてはいけない。この映画観たら何か良いことがあるのかなって。(笑)
 だから、エネルギー問題や地域の問題をより深く考える機会を主催者側は与えられるし、呼び込まれて初めて来た人たちは考えがそこでスタートして、「私は何が出来るだろう?」と悩んだ時に「じゃぁ、この上映会を主催した人たちはどうなのかな?」と出会って参加して行くことにもなったりする。
 根っこはみんな繋がっているので、なにも「六ヶ所」だけやらなくてはいけない訳ではないんですよ。農業のことをやって行くと、今一番大きなテーマは、どうやって安全で安心なものを作ろうかということですよね。そんな時に、農薬はもちろん「放射性物質が入ったらどうしよう?」となるんです。「どうやって売るんだ?」「食べて大丈夫なのか?」「基準はどうなってるんだ?」って。平和のことをやっている人たちは「六ヶ所村の施設が動いたらプルトニウムが出来るけど日本は核武装の問題は大丈夫なんだろうか?」とか。それでお互いに情報交換が出来たりもするということです。

___感じたことを話し合ったりシェアすることで、自分の考えが確認されて行くということですね。

 人間って、人と話すことでしかインスパイアされないものなんじゃないかな、という気がします。私なんか、良いアイデアが浮かぶのは、誰かと全然関係ない話をしている時だったりするかも。(笑)

___そうすると、主催者側のファシリテーションの力が問われますね。

 だからいろいろなタイプの上映会があって、主催者によってすごくカラーが違うんですよね。本当はもっと前からそういうことをやって来なきゃならなかったのに、今いきなり始まったばかりだから皆すごく苦労なさってる。でも、すごく楽しいことだと思うんです。

何かが出来る、何かを変える。
すごくその可能性のある国なんですよ、日本って。


 日本って、官僚が腐っていたり政府が本当に国民のことを考えているのか分からないような、いろいろな問題がある国だけど、それでも世界中のいろいろな国と較べると、こんなに経済力がある人がたくさんいて、市民がこんなに自由に活動できる国なんて無いですよ。楽しくやれるんです。今のうちですよ。やれる時にやっておかないと。
 私はイラクの医療支援をやっていますけれど、外も歩けない。どこでいつテロに合うかも分からない。政府が言っていることに対して、私のように「本当に大丈夫なの? もっと皆で知って、相談しましょうよ!」なんてことをソ連のような所で言うと、エレベーターに乗っているところを撃ち殺されるとかね。(笑)いや本当ですよ。今のロシアでも、この10年くらいで数十人は殺されてるんじゃないでしょうか。或いは、生きるのに精一杯になってしまえば、もちろんそんなことも出来なくなる。
 だから、こんなに何かが出来る、何かを変える、すごくその可能性のある国なんですよ、日本って。それなのに、皆それにエネルギーを使わないし、それに気づいていないというのは勿体ないなぁと思うんですよね。

___そんな危機感まで意識が届いている人が、まだまだ少ないように感じます。

 日本の国の中にいたらブロックされて見えないし、マスコミも本当に危機がある酷い現実をハッキリと伝えることをやっていないかも知れないけれど、いったん日本の外へ出ると、そりゃぁもう大変ですよ! 生存を脅かされるような現場が、世界中にゴロゴロしている。
 そんな貧しい国に日本が行って、その人達の食糧をお金で買い叩いて来て、日本人はそれをちょいとカジって、毎日3000万人分を捨てている。それもエネルギーですよ。食糧自給率が低いから、遠い所から運んで来る。木材も、建築資材として運んで来る。その輸送のためのCO2を出すことをやっている。それは、お金を出したからと言って、奪って来る訳ですからねぇ。
(つづく)




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18:00:00 | milkyshadows | |