16 March

神の視点 〜全体と部分〜

artist file "tanebito" #14 [3/3] 
野見山 文宏 さん(生理解剖学講師・鍼灸師 / Unplug-lab Japan

「インナー脳=本能」と「アウター脳=理性」


___野見山さんは生理解剖学のワークショップを主宰されています。そのワークショップを通して「バランス」ということをメッセージに込めてらっしゃいます。

 「アウター」と「インナー」の話ですね。「インナー脳=本能」と「アウター脳=理性」。インナーマッスルとアウターマッスル。どちらも大事で、どちらも否定されるものではない。まさに「バランス」ということに尽きると思います。バランスが良い状態が、心地良い状態なのかなと思います。

___「インナー脳」と「アウター脳」というのは、野見山さん独自の用語ですね。

 そうそう、勝手に僕が使ってるだけ。(笑)

___その解釈で、意識と無意識の関係性も説明なさっていました。
 
 インナー脳は本能だと説明しました。本能ってスゴク大事だなと思うけど、僕たちはこうして進化してきた理由がある筈で、アウター脳まで進化して理性が出来た意味というのがある筈なんです。だから、インナー脳もアウター脳も両方とも活かしてあげることが大事だと思います。

___人それぞれで、インナーとアウターのどちらかが優位になります。インナー優位の状態をヤジロベエに、アウター優位の状態を茶筒に喩えてらっしゃいました。

 インナーマッスルは「軸」です。でも「軸」だけだと外からの強い攻撃に対して、ゆらゆら揺らぐことは出来るんだけど、もうちょっと安定感が欲しい。そういう意味で、アウターマッスルがあると「鎧」のようにホールドしてくれる。でも「鎧」だけだとガチガチで身動きが取れない。
 「鎧」は少ない方が良いように思いますけど、最小限の「鎧」があった方が、僕たちは安心して生きて行けるような気がします。

___東洋と西洋の文化についても、それに喩えてらっしゃいました。

 「禅」の文化って、削ぎ落とす文化ですよね。余計なものを削ぎ落として行くと、実は内側に素晴らしい光があるんだよ、という考え方です。日本の料理は、余計な味付けをせずに素材の味を大事にしようという方向性です。西洋の料理は、逆にデコレートしてソースで味付けをして行く。
 それもまた、両方大事なんだと思うんです。その東洋と西洋が融合されて、まさに「和」の文化です。それが、21世紀の今、起こっていることなんじゃないかなと思っています。

ズームインとズームアウト、全体と部分、その両方を交互に自由自在に行ったり来たり。
神様がいるとしたら、きっとそんな見方をしていると思います。


___体のパーツをズームインする視点と同時に、ズームアウトして全体像をみる大切さをおっしゃっていたのは、そういうことにも繋がってきますね。

 20世紀後半までは、物事を切り刻んで細かく分析して考えて行こうという時代で、しかも時代が速くて、効率化で突っ走って行く。それが行き過ぎると繋がりが見えなくなっちゃう訳です。自動車の高速教習でやりましたよね? 高速で走るほど、周りを見渡す全体観が見えなくなる。本当に一点しか見えなくなる。部分しか見えなくなる。そうすると、やっぱり不安だと思うんですよ。かと言って、すごくゆっくり歩いたり立ち止まると全体の繋がりが見えてくるんだけど、その時はボヤッとしか見えないですよね、
 だから、ズームインとズームアウト、ゆっくりと速い、全体と部分、その両方を交互に自由自在に行ったり来たりできるようになると、すべてが3Dで見えてくると思うんです。神様がいるとしたら、きっとそんな見方をしていると思います。
 そんな視点で体や社会を見て行くと、面白いですよね。

___多層的な世界観を持って見ると、どのレベルでも同じようなパワーバランスで物事が回っているように見えてきます。
 
 「フラクタル」ですよね。
 東洋医学ってそんな考え方を持っていて、部分の中に全体があってそれもまた何かの部分である。手のひらや足の裏に全身のツボがあって、足の親指の中にも全身を象徴するようなツボがあって、マトリョーシカの人形のような入れ子構造になっている。だから、足を一生懸命やれば全身が良くなる、というような説明をしたりする。
 そんなことを考えていて思うことは、例えば胃が悪い時にその原因は何かと言えば、胃だけに問題がある訳ではなくて、体全体に問題があってその結果として胃が悪くなっている。じゃぁ、体が悪い原因は何かと言うと、家族間の問題であったり、社会全体の問題であったりする。じゃぁ、その原因は何かと言うと、地球全体のいろいろな問題であったり、環境問題であったりする。結局、どんどん視点をズームアウトして見て行かないと根本的な解決には至らない訳です。

たとえ人類が皆死んじゃうとしても、それが何かにとっての学びだったりする
地球レベルの学び、と言うか。


 「複雑系」の本を読んでいたら「一隅を照らす」という言葉があって、そういう構造であるからこそ一部分を心を込めて整えていくと他の全体にもそれが波及して行く、ということです。環境のこと、政治や平和のこと、グタグタでどうしようもないと思ったりするんですけど、それは小さな部分の、例えば自分自身の心の平和とか、家族間の平和とか、そこがしっかりしていればそれが波及して行く。

___世界を良くしていこうと思った時に、本質的には一人一人が気づいて変わって行くことが一番力のある変化なのでしょうけれど、伝え手の側として、それが伝わって行くスピードにジレンマを感じることはございませんか?

 昔はそれでアツくなって憤っていました。ビーチクリーンにしても、サーフィンの後に毎回ゴミを拾っているのに「なんでゴミがなくならないの?」「なんでみんな気づかないの?」って。
 それはワークショップでも同じで、こっちが教えてやろうとするほど、伝えようとするほど、変えてやろうと押しつけるほど、まさにアウター脳で肩に力が入ってダメなんですね。(笑)
 今は淡々とゴミを拾っています。静かな深い想いは必要だと思います。そうすれば、案外自然に変わってくる気がします。もしも変わらなくても、それはそれで一つの流れなんじゃないでしょうか。
 手塚治虫の『火の鳥』の中では、エピソードとしていろいろな地球の在り方が描かれています。争いを繰り返して、核戦争で人類が滅亡しちゃったり、それでもまた地球はやり直して新しい文化を築いて、それもまた崩壊して。それを淡々と火の鳥は遠くから眺めている。火の鳥って全知全能で永遠の命を持った者の象徴なのでしょうが、もし本当に何でも出来る知恵があるとしたら、きっと手を貸すのではなくて自ら学ぶのを淡々と待っているんだろうと思います。
 環境問題の話でも、たとえこのまま環境が悪化して行って人類が皆死んじゃうとしても、それもそういう流れなんだなぁと思います。大きな視野で見ると、案外それが良いことだったりするかも知れない。それが何かにとっての学びだったりするかな、と思う。地球レベルの学び、と言うか。



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09 March

波乗りと自然農のヨガ的関係

artist file "tanebito" #14 [2/3] 
野見山 文宏 さん(生理解剖学講師・鍼灸師 / Unplug-lab Japan

100%の自給となると凄くハードルが高くなりますけど、
「その時は買えば良いじゃない」という緩さ、それもバランスだと思うんです。


___伊豆の暮らしはいかがですか?

 気持ちが良いですね。ちょうど今、ようやくその心地良いバランスが取れている感じです。

___農業もなさってらっしゃるのですね。

 自給用の畑なので、自分たちで食べる分だけです。「農業」と言っちゃうと、トラクター買って、とか。(笑)全然そんなのじゃない。
 以前は頼まれたりして送ったりしていたんですけど、最近はごく親しい人にしか送らないし、その為にとなっちゃうと、やっぱり余計なことをしちゃうんですよね。ちょっとでも見栄えを良くしようとか。

___一日の平均的な時間割としては、どのくらいの時間を農作業に費やされるのですか?

 農繁期や種まきの時期は、一週間のうち3日間くらいは畑に行きます。冬場はほとんどすることがないですし、そんなに手が掛からないですから、1週間に1回とか、収穫をするくらいかな。
 だから均して言うと、1週間のうちの2日くらいのペースじゃないですかね。

___と言うことは、例えば週末だけの農作業で自給は賄えるということでしょうか?

 もうそれで簡単にやって行けると思いますよ。
 もちろん、お米も野菜もって100%の自給となると凄くハードルが高くなりますけど、「その時は買えば良いじゃない」という緩さ、それもバランスだと思うんです。自立自給と、何かに頼る、というバランス。8:2くらいです。米は送ってもらってるから6:4くらいかな。それくらいが僕らにとって心地良いバランスですね。

___お米となると、一人では出来ません。

 そうなんですよ。例えば農薬のことも、僕が畑を借りている所は地域でまとめて水や農薬の管理をしているので、自分たちだけ無農薬で作りたいと言ってもなかなか難しいらしいんです。

___他の時間は、サーフィンもなさってらっしゃる。

 だいたい、波が良いとかお天気で海が気持ち良ければサーフィンに行きたいし、あまり波が無い時は畑に行けば良いし、そんな感じでやってます。車で40分〜1時間走ると、コバルトブルーの海が待ってます。(笑)
 サラリーマン時代は茅ヶ崎とか行ってましたけど、今湘南は混んでるしね。伊豆はその点、ピースフルに心穏やかに出来ます。サーフィンは、人とも自然とも争うことなくやりたいですよね。その為の時間ですね。

___湘南ではビーチクリーンのキャンペーンなど盛んですが、この辺の海はいかがですか?

 相当みんな頑張ってビーチクリーンをしていて、それでようやくそれなりのキレイさを保っているという感じです。僕らも毎回サーフィンの後ビーチクリーンするんですけど、それでもゴミが多いですねぇ。ビニール、プラスチック、、凄いですよ。

自然農の畑もサーフィンも同じ感じです。
究極は何もしないことかも知れません。それで見ていることが出来る「器」と言うか。


___サーフィンの為に体を鍛えたりなさってますか?

 まぁ、ヨガやったり、ですね。サーフィンとヨガって相性が良い感じがする。やっていることも同じだと思いますね。サーフィンもヨガであり、瞑想であり、ということだと思います。畑もそうです。自然農の畑もサーフィンも同じ感じです。

___「自然農」というのは、あまり世話を焼かないやり方だそうですね。

 出来るだけ介入しなくて、育っていればそれで良い。例えば、種をまいて芽が出た頃ってまだまだ弱いから、ちょっと何かを世話してあげたりしますけど、出来るだけ外からの介入を少なくして、自然の力とか野菜の力を引き出してあげようという考え方です。
 ちょうど「エッジ」を作り出しているんですよ。

___「エッジ」?

 つまり、僕たちが介入してコントロールすることと、野菜や畑の自然の力、自発との、その「エッジ」です。コントロールし過ぎると無味乾燥な畑になっちゃうし、かと言って全部を自発に任せていると、やっぱり野菜も育たなかったりする訳です。だからその中間点、ちょうど心地良いところを見つけて行こうという感じです。
 究極は何もしないことかも知れません。それで見ていることが出来る「器」と言うか。。(笑)
 最初の頃はかなり世話してましたね。甲斐甲斐しく。それが段々分かって、「これでも大丈夫なんだ」と信頼感が出来て来る。そうして段々と、自然のままに任せようという感じになってきました。

___そのスタンスがヨガに通ずるということですね。

 そうです。
 サーフィンもそうだと思います。人間の力で「こっちへ行こう」とするコントロールと、波の力に委ねることと、そのバランスだと思うんですよ。そんなことを通じて、自然の力を信頼出来るようになってくる。コントロールを手放せるようになってきた気がします。頭で考えるんじゃなくて、何回も何回も繰り返して、実感して。
 同じことを、僕はヨガでも学んでいる気がします。

体が動いていると自然に出て来るんじゃないですかね。
頭で考えるのではなくてね。


 自分のしてるワークショップも「ファシリテーション」と言えばいいでしょうか。どっちかと言うと僕も講座自体をコントロールして一生懸命伝えようという、「僕が伝えたい!」という想いが先になっちゃうんですけど、そうじゃなくて参加者が自ら感じてもらう、気づいてもらう。特にシェアの時間を多くすると、すごく変わりました。

___感じたことや気づいたことを「シェアする」という作業は、最初は戸惑う方が多いのでは?

 慣れていないと、そうかも知れません。

___それを、ワークショップの中ではどのようにリードなさるのですか?

 体が動いていると自然に出て来るんじゃないですかね。話だけの講座だと、いきなり「シェアしましょう」と言われても無理に作って喋る感じでしょうけれど、体が動いた後だと自然に出て来る気がしますね。頭で考えるのではなくてね。

___体の感覚はリアルですものね。

 そう思います。
 もちろん頭では分かっているし、体験からも分かっているけれど、特に今回は「コントロールを手放す」ということを、身をもって、腑に落ちるというのが良かったですね。

___その後は、体を動かす時間を多くなさっているのですか?

 もともと『生理解剖2』という講座はほとんど動くような講座なんです。ですから、体を動かす時間を増やしたというよりは、シェアの時間を増やした感じです。僕もすごく楽になりました。(笑)
 それまでは、一生懸命やり過ぎて、終わった後放心状態になる感じだったんですけど、それが無くなりました。楽しいですね。

___それはサーフィンで波に乗るような感覚なのでしょうか?

 まさにそうだと思います。あれだけシンドイことをやっていても疲れないですからね。
 サーフィンを客観的に考えたら、2時間も3時間も泳ぎっぱなしで、しかも足を使わないで手だけで泳いでいるようなものですからね。結構大変なことをしているはずなのに疲れないですからね。よく似てますね。
(つづく)


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02 March

心地良く暮らすバランス

artist file "tanebito" #14 [1/3] 
野見山 文宏 さん(生理解剖学講師・鍼灸師 / Unplug-lab Japan

理性的な部分を否定したり「もっと自由に振る舞わなくちゃ」と思うことこそが、
理性的なマインドの働きであるんですね。


 僕はどちらかと言うと「アタマ人間」、理性的と言うんでしょうか。学生の頃はそうでもなかったんですけど、会社に入ってから徹底的に「理性人間」になったように思うんですよね。例えば、奔放に自由に振る舞っているような人を見ると、引け目を感じたりしたんです。ネコのように無邪気に振る舞っている人を見ると、僕はそこでどうしても頭で考えてしまったりクールな部分があったりした。それで、そういう理性的な部分を否定しようとしていた訳です。
 でも、そうじゃないだと気づいたんです。理性的な部分を否定したり「もっと自由に振る舞わなくちゃ」と思うことこそが、理性的なマインドの働きであるんですね。尚かつ、理性やマインドの働きは必要なことだったんだ、と。それがあるからこそ、社会でもいろいろなことを成し得たし、実際にいろいろなことを得ることが出来た。それを否定するなんて、もし自分がマインドの立場だったら「これだけ頑張って来たのに、何で否定されなくちゃいけないの?」って。(笑)
 今までマインドのことを否定して蔑んで「あっち行け!」と思っていたけど、今は「ありがとう」という気持ちになりました。(笑)
 サーフィンもよく似ています。波に委ねているだけじゃ何処に行くか分からなくなります。そこで、中心を持って、方向性を体で示してあげることがすごく大事です。

___野見山さんは「バランス」についてポリシーに掲げてらっしゃいます。現代医学に対して東洋医学、貨幣経済に対して自給自足、都会生活に対して田舎暮らし、左脳と右脳、現実世界とスピリチュアル。
 
 当たり前ですけど「どっちも大事だよね」という話です。
 例えば、最近はスピリチュアリズムで「天使はこう言ってるから、、」とか「神のお告げがあって、、」と言ってフワフワと行く気持ちも分かるけど、それだけじゃない意思決定の仕方もあるでしょ。地に足を着けつつ天を仰ぐ、みたいな。そんな生き方をしたいな、と思うんです。
 「田舎暮らし」もしくは「スローライフ」ということも、退職金で悠々自適で田舎でバンダナ巻いて蕎麦打ちして、ということで良いんですが、それだけだと錆び付いちゃう、と言うと失礼ですが、刺激がもの足りない。でも、都会にずっと居続けるのも疲れちゃったり、いろいろな問題がある。そして、環境問題やいろいろを考えると、その中間が丁度良いということになる。楽しいし、一番可能性があるような気がしますね。まさに「アライブ/alive」。臨界点こそアライブ、生きている、躍動感ある暮らし。
 田舎で静かに引っ込んでいるのも良いし、都会でグーッと頑張るのも良い。だけど、都会へ行くと燃え尽きちゃう、田舎へ行くと静まり返っちゃう。その臨界点こそが、カオスの淵。(笑)そんな感じだと思っています。

僕の中のキーワードは「バランス」なんです。
多分、6:4〜8:2くらいが心地良いのかな。
困った時に2割は助けてもらえるような緩やかさが、ちょうど僕らの生き方として合っているような気がします。


___その臨界点を見つけるためには、座標軸としての両端を自分なりに知る必要がありそうですね?

 そう思います。都会生活もとことんやってみて、田舎の生活もやってみて、ちょうど今、そのバランスが取れている気がします。

___両端を体験する冒険が、人生では必要だということでしょうか?

 時として、そういう力は必要でしょうか。(笑)
 サーフィンなんか、そうじゃないですか? 昔は本当に無茶してました。初心者でようやく立てるか立てないかの時に、「台風の時に行くのがサーファーだぜ!」という感じで行って、それでボロボロになってましたからね。今は絶対そんなこと出来ないですけど、時としてそういう体験は必要ですよね。
 だから、両方を経験してみると面白いかも知れませんね。最初から心地良く落ち着いちゃうと勿体ない。本当の心地良さが分からないような気がします。都会でガーッと働く経験も必要だろうし、田舎でノンビリも必要だろうし。何が心地良いのかな、と最近はよく考えます。

___その「心地良さ」も、人それぞれのバランスなんでしょうね。

 だと思います。だから、僕の中のキーワードは「バランス」なんですよね。
 食糧自給もそうですが、全部を自給と言うと凄くストイックで硬くなる感じがするし、全部をスーパーに委ねるというのもどうかと思う。エネルギーも出来るだけ自給したいと思っているし、医療の自給も、要は自分で治せるようなことをしていきたい。それもバランスです。時として頼ることも必要です。
 多分、6:4〜8:2くらいが心地良いのかな。出来るだけ、6割から8割は自分で何とか出来る自信があって、困った時にあと2割は助けてもらえるような、それくらいの緩やかさが、ちょうど僕らの生き方として合っているような気がします。

___見ていて憧れるようなライフスタイルでも、自分にとって心地良いバランスとは限りません。

 全然違いますね。
 だから、昔はその座標軸が他人の生き方の座標軸で、「こういう生き方をしたらカッコ良い、尊敬される」というような形で生きていましたけど、最近はそこが定まって来た気がします。

僕は病気になったが故に、
手を放す勇気というか、後押しをしてくれたんです。


___リチャード・バックの『イリュージョン』が愛読書だそうですね。主人公が、曲芸飛行士を辞めて救世主の修行をするという話です。救世主を辞めた男に弟子入りをする。
 
 不思議な話ですよね。初めて読んだのは、まだ東京で働いていて、まさか自分が伊豆に来るなんて思いもしなかった頃に、伊東に住む友人に薦められたんです。『かもめのジョナサン』もそうですが、リチャード・バックは深いテーマを物語に乗せて書く人なんです。
 特に『イリュージョン』で印象に残っているのはイントロダクションで、川の底につかまりながら生きている村人たちがいて、その人たちは誰もが川の底につかまっていることが当たり前だと思って生きているんです。それを、ある時ひとりの若者が「それはオカシイよ」と言い出すんです。村人たちは「手を放したら危険だよ」と止めるのですが、若者は手を放す。それで、最初は流れに持って行かれて石にぶつかったりするんだけど、その若者は流れに運ばれて、川の上に顔を出して、そのまま大きな海に運ばれて行く。他にも深いエピソードがあるのですが、その「手を放す」「委ねる」ということを教えてもらった本ですね。
 実際に、サラリーマンをやっている頃にはその生活が当たり前だと思っているんですよね。今だから「そうじゃないよね」と思えるけど、あの頃は「この会社でずっと働いて、給料もらって生活して、出世して、、」という人生が当たり前で、そこから外れたらトンデモナイことになっちゃうと思っていたんです。

___手を放すことには勇気が必要です。

 そうですよね。怖いもんね、誰しも。(笑)
 僕は病気になったが故に、手を放す勇気というか、後押しをしてくれたんです。病気にならなければ手を放せていなかったかも知れませんね。中途半端に風邪ひいたくらいだったら、しがみついて「コレが良い」と思っていたかもしれないですね。(笑)

___手を放すことを後押しするのも、川の底にしがみつくのを促すのも、どちらも「流れ」なのかも知れませんね。

 そうですね。たまたま僕には、今の流れが心地よい流れだったんでしょうね。
(つづく)



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