Archive for September 2007

16 September

オーガズミックな歓びの中で

artist file "tanebito" #07 [3/3] 
滝越 リクタ さん(ベリーダンサー,オーラソーマセラピスト / sacred temple

身体は叡智を持っていますから、
どう動きたいのかは身体が分かっているんだと思うんです。


___ベリーダンスは即興の踊りですが、それは、踊っていて流れが見えるのですか? 勝手に動くのですか?

 どうでしょう。。
 少し話がズレてしまうかも知れませんが、私がシェアをしたいことは、テクニックではないんです。ベリーダンスを扉として、エネルギーが周ることを体験するツールとしてのアプローチなんです。
 例えば手を動かすにしても「こう動かしたらキレイだ」という意識で踊るのではなくて、身体は叡智を持っていますから、どう動きたいのかは身体が分かっているんだと思うんです。その感覚をシェアしたいんです。
 もちろんエネルギーの流れがビジュアルで見える方もいらっしゃると思いますが、私はそれが見えている訳ではなくて、その感覚に乗っ取られてトランス状態に入ることによって、すべてが勝手に起こってくれる、ということです。
 それは、「信頼」の質だと思います。

___「信頼」?

 自分の「身体の声」に対する「信頼」、と言えば良いでしょうか。

___なるほど! まずは、自分自身の身体を信頼しなくてはいけないということですね。

 そうですね。
 身体から送られてくる言語への信頼は、自分のエゴや恐怖をちょっと脇に置いたり、手放せたりした時にポンと訪れるんだと思うんです。その感覚をシェアするためのツールが、たまたま「ベリーダンス」だったということなんです。
 そして、自分と一緒に踊ってくれた身体に感謝して、心と身体と魂に対して深呼吸をして終わりにするんです。それはそこで終わりにする。息を吐き出して手放す、ということですね。
 「呼吸」はそのものが「生死」ですから、短い時間でも生まれて死んでを繰り返している。そこへ入って行けるということは、ツールが何であれ素晴らしいことだと思うんです。
 「生きている瞬間」の積み重ねが出来て行ければ、何をしていようとどこに居ようと、あんまり関係ないと思うんです。

「空」とか「無」、
それが自分を何かクリックしたんです。


___「リクタ/rikta」というお名前は旅の中で授かったそうですね。

 そうです。
 インドでいただいた名前で、サンスクリッド語だと思いますが、「空」とか「無」、「empty」という意味です。その時はまだ踊りを始める前だったので、ちょっと怪しい気持ちだったのですが、「empty」という意味を見て、それが自分を何かクリックしたので、すぐに名前を決めました。
 今自分がシェアをしていることが、まさに「無になる」とか「空になる」ということなので、すごく気に入っています。

___素敵なお名前ですね。

 海外で放浪生活をしていてこそ出逢える人がいたり、自分に気づきが起こったりしていて、そういう生活をしていることを活かせる役割がきっとあるはずだ、という思いが頭の片隅に長い間あったんです。それが最近までハッキリしなかったんですが、今は、日本にいる皆さんとの橋渡しになれたらいいなと思っています。

___世界を旅していると、日本の社会はどう見えますか?

 「日本の人」と括って見ることは出来ませんが、肉体的な距離感があることや、持っている感情を爆発させることにブレーキをかけてしまうようなことを感じることは多いですね。

___それは、どういうことだと思いますか?

 そういう文化ではない、ということでしょうか。
 例えば、怒りたい時に何も考えずに怒ることはなかなか出来ないでしょうし、愛情を感じた時に思考を忘れて涙するようなことは大人になったら無いことだと思います。抱きしめることや、互いに目を見て一緒にいることや、そういう環境で育ってはいないと思うんです。
 でも今は、いろいろな意味で変わって来ている時のように感じませんか? みんなが新しい生き方を始めている。

本当にオーガズミックな歓びの中では、
他の人を傷つけるような時間やエネルギーは無いと思うんです。


___大切なことに気づき始めているような、胎動を感じます。チャンスかも知れませんね。
 これから伝えて行きたいことはありますか?


 特に女性の人たちに対して、 たくさんあると思います。
 自分を満たすということ、 本当に恍惚で「ただただ吐息や涙が出てくるものは何なのか?」ということに、女の人が子宮のレベルで触れていったら、自然に世界が動くと思うんです。
 特に都会に住んでいると、すごく勇気の必要なことだと思います。流行ものは全部入ってくるし、情報はたくさんあるし。だけど、太古に布一枚で暮らしていた時のようなトライバルな感覚を身体で感じて、自分のリズムを聴いて、今何が流行っているからというのではなくて「本当にオーガズミックな歓びを与えてくれるのはこれだ!」と勇気を持って言えるようになっていったら楽しいですよね。
 本当にオーガズミックな歓びの中では、他の人を傷つけるような時間やエネルギーは無いと思うんです。

___リクタさんのなさっているワークやセッションは、その為なんですね。
 そうですね。
 自分が一瞬でも味わったそういう状況を、体験を通して伝えることが出来るかも知れないという思いなんです。
 例えば、日本での仕事の場合、タントラや瞑想のワークをシェアすることが多いのですが、参加者の方に「日本ではこういうワークは無いですよね」と言われます。私も日本人ですが、日本人には無い感覚のアプローチというのは、やっぱり、海外に居れたからこそ得れた部分なんだと思うんです。

___皆さんの反応はいかがですか? どんなお声がありますか?

 「衝撃を受けた」とおっしゃる方も多いですし、「自分に対して”YES”と言うことですごく楽になった」というフィードバックをいただくと、「あぁ伝わって良かったぁ」と思います。

___リクタさん自身も得るものがある。

 もう、そのまま私が得てるんです!(笑)
 「タントラ」という言葉のルーツには、「意識の拡大」や「糸を紡いでいく」という意味があるんです。それをシェアしていくことが自分自身を拡大拡張していくことであったり、人と深いレベルで繋がるということで、どんどん織物が織り上げられて行く。
 それは、それが誰のものとか、それを使って何をする、というレベルの話ではなくて、それぞれの違う色の糸が織られて行って、ただそこにそういう大きいものがある、ということです。そうして繋がって行くことによって、気がつかないうちに、自分の持っていないことを他の人から自然に受け取っていたり、自分からも他の人に与えていたりするのではないでしょうか。
 そういう時代が来ているように、感じています。



18:00:00 | milkyshadows | |

09 September

「魔法の瞬間」

artist file "tanebito" #07 [2/3] 
滝越 リクタ さん(ベリーダンサー,オーラソーマセラピスト / sacred temple

「セクシュアリティ」と「スピリチュアリティ」とを、
繋いでひとつに合わせることが私の仕事です


___『sacred temple』とは?

 「神聖な寺院」という意味です。
 タントラでは「身体を神聖な寺院として」ということを言います。

___そこ(身体)にはすべてがある、ということでしょうか?

 そうですね。身体がスタートです。
 今「スピリチュアリティ」ということが言われていて、過去世だとか守護霊だとか、「私たちは身体ではない」と言って意識が上の方へ行ってしまっている。もちろんそれも大切な要素なのですが、まずは基本の部分を体験すること。それを忘れたら、スピリチュアルな方向へは行けないんです。
 「セクシュアリティ」と「スピリチュアリティ」、実際的な部分と霊性とを、繋いでひとつに合わせることが私の仕事です。

___セッションに来られる方は、いろいろ問題を抱えている方が多いのですか?

 どうでしょう。。
 私は、「問題」という形でクライアントさんと出逢ったことがないかも知れません。いろいろな事を話してくださって、その中で、現状の自分に起こっていることや過去に起こったことについてはシェアをしますが、その時に「それが問題なんですね」というふうにはお聞きしないんです。その背後にはもっと大きな理由があったりしますし、それぞれがユニークなんです。
 そこにいつも見るのは「美しさ」です。

それぞれに影響し合っていて、
それでも全部が正しい場所にあってバランスが取れている。
そんな全部を見たときには 畏敬の念を感じます。


___美しさ、、

 「何故それが起こったか」ということの背後には、私たちが把握していないような、もっと大きな目的があって、それは人によって呼び方はいろいろですが、それこそ「神」の意志と言ったり、「宇宙」と言ったりする。
 私たち一人をとっても、いろいろな面を持った多面体で、それで一つの宇宙をつくっている存在なんだと思うんです。そこにまた他の人が関わってきて、社会だとか職場だとか、親との関係とか、いろいろなことが複雑に絡んでいます。宇宙も同じで、太陽系をとってみても、いろいろな惑星があって、それぞれに影響し合っていて、それでも全部が正しい場所にあってバランスが取れている。
 だから「AとBの付き合いがどう見えるか」というだけで「良い悪い」ということではなくて、その他に絡まっている様々なものをトータルな写真にして見てみると、実はバランスが取れていることに気づいたりする。それは、植物にしても食べ物にしても、人間だって宇宙だって、同じだと思うんです。
 そんな全部の写真を見たときには畏敬の念を感じますし、それをクライアントさんに開いていただいたて見せてもらうことができるというのは、セラピストとしての素晴らしさですね。

___「セラピスト」というのは、リクタさんにとってどんな仕事ですか?

 私がセラピストとして体験しているのは、「クライアントさんと一緒にいる」という、ただその状態なんです。「Do」というアクションではなくて、「Be」ということです。ジャッジをしたりストーリーを加えたりするのではなくて、ただそこにいて、目を見たり、呼吸をすることで、何かがポンと出て来るんです。
 クライアントさんをサポートする言葉が、自分じゃない所から自分を通ってやってくるような体験。「媒体」になるような体験を仕事を通してさせてもらっているということは、実は、もの凄いことだと思うんです。
 「セラピスト」や「オーラソーマ」が凄いというのではなくて、前も後もない「ただその瞬間にいる」ということがどれだけ全てか、ということです。

時間を平行に滑るのではなくて、
一瞬一瞬を下ろして行く


___「セラピー」は、セラピストとクライアントの共同作業だと思います。「ただ寄り添う」というスタンスを取るとすると、クライアント自身のアクションを促す為には、ただひたすら待つのでしょうか?

 どうでしょう。。
 その質問で思い出した出来事なのですが、空港の税関で長蛇の列に並んでいた時のことです。そこは、一列に並んで待っていて、空いたブースへ呼ばれて行く、というシステムでした。「これは長くかかるなぁ」と思って待っていたら、そこには空いたブースへ次の人を通す役割の方が一人いたんです。その方が「次の人、◯番ブースへ!」って動かして行くんですね。一日に何万人もそこを通るでしょうから、機械的にやってしまうような仕事なんだと思います。でも、そのオジさんはその機械的な仕事を、本当に愛情を持って、笑顔で楽しそうにやっていたんです! 一人一人をちゃんと見て対応しているんですね。ものの数秒だけの出会いの中なのに、ちゃんと自分を見てくれているということが、とても素敵だと思いました。
 もう一つ、エジプトで「ワーリング」という回りながら瞑想する人たちのショーがあったんですね。それは、ダンサーが大きなスカートを穿いて何時間も回るんです。それが円になって見えるキレイな踊りで、そのメインのダンサーがもちろん素晴らしかったのですが、その後ろに何十人かミュージシャンがいて、時々1人づつ前へ来て自分のテクニックを見せてくれる場面があったんです。もう皆さん本当に素晴らしかったのですが、その中に、カスタネットを持ったオジさんがいたんですね。カスタネットは誰もがやったことのある楽器ですが、その方は本当にニコニコと演奏していて、一打ちするだけで「あぁもう恍惚♪」という表情。(笑)もう皆もそのオジさんの恍惚に引っ張られて笑っちゃうんです。でも、そのオジさんを笑っているのではなくて、純粋にその「カチッ♪」っていう瞬間が楽しい! そういう「魔法の瞬間」を見せてくれるオジさんだったんです。
 その二人に何が共通していたかと言うと、「その瞬間瞬間を、ちゃんと呼吸していた」ということだったんだと思うんです。つまり、「何をしているか?」ではなくて「どれだけそこにいるか?」ということなんだと思うんです。全部の瞬間において。

___「どれだけそこにいるか」とは?

 その「深さ」ですよね。時間を平行に滑るのではなくて、一瞬一瞬を下ろして行くということ。
 そうやって呼吸をして生きていたら、一日に何万人もカウンターに人を通すような機械的な仕事であっても、何時間経過したとか、そういうことは関係なくなってくるんだと思うんです。一瞬一瞬しかないのですから。
 旅をしていると、そういう素敵な「魔法の瞬間」を見せてくれる人がたくさんいるんです。そういう人たちに出逢えてきたことが、すごく大きかったと思っています。
 だから話が戻ると、大切なのは「誰がセラピスト」ということではなくて「自分がどのセラピストに気づいたか」ということなんだと思います。実際は、セラピストではなくても、自分の職業を愛している人に、何かをクリックされて癒されていたりしているのではないでしょうか。
 「その人が何をする人なのか?」ということは重要ではないことに、皆さん気づいているような気がしています。
(つづく)



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02 September

トータルな生と死を願って

artist file "tanebito" #07 [1/3] 
滝越 リクタ さん(ベリーダンサー,オーラソーマセラピスト / sacred temple

「神聖な寺院」

___リクタさんは、ベリーダンスだけでなく、ヒーリングの分野でも様々なワークやセッションを行っています。

 【Sacred Temple(セイクレッド・テンプル)】という名前で活動しています。「神聖な寺院」という意味です。
 ベリーダンスも、ワークショップも、オーラソーマのセッションも、全部、自分の身体を「神聖な寺院」として捉えることを軸にしたワークを行っています。

___「身体」にフォーカスしたワーク、ということでしょうか?

 オーラソーマのセッションでは直接身体に触れることはないですが、自分の小さな身体の中でいろいろな物語が起こっていたり、少しづつ「学び」をしていく過程で、「身体が在る」ということに気づくところから始めよう、ということです。
 まずは「今ココで自分と一緒に在る身体」を肯定して、畏敬の念を持って受け止める、ということから始めています。

___ワークショップは、どんな内容ですか?

 直近では、『セイクレッド・テンプル』として2日間のワークショップを女性限定で行いました。
 それはやはり、「今ココ」という瞬間に呼吸をしながら帰ってくる、それによって「身体がココに在る」という基本に帰る、というワークです。それを、ダンスや、自由に絵を描いたり、というようなことを通して2日間でシェアをしました。

旅の始まり


___キャリアの始まりは「オーラソーマ」だったそうですね。

 7年ほど前に、たまたま立ち読みした本で「オーラソーマ」に出逢って、なんとなく本を購入したことがキッカケでした。
 本の背表紙に「あなたの好きな色は何色ですか?」という質問があって、いくつか色のサンプルがあったんです。だけど、私がその時に好きだったのは「白」と「黒」だったんですね。その白と黒がサンプルの中に無かったことに衝撃を受けたんです。
 その時は、色がまったく見えていない世界に生きていたんですね。その後、よく分からないままにオーラソーマのセッションを受けたり、自分がセラピストになる為の勉強をしていく過程で、「色が世界にあったんだ!」って気づき始めた。きっと街にはそれまでも「色」があったハズなのですが、それが初めてちゃんと目に映ってくれるようになったんです。(笑)
 そんな中で、ある時たまたまインドネシア・バリ島の旅行パンフレットでウブドゥのライステラスの写真を見て、「あぁ、ここに住みたい」と思ったんです。それで、オーラソーマのボトルを全部持って、バリ島へ行きました。

___旅のスタートはバリ島だったんですね。

 そうなんです。バリ島にはそれまで「オーラソーマ」はまったく無くて、私が初めて導入したんです。
 ウブドゥの村で、ヒーラーが瞑想しながらマッサージをすることで有名な【ボディワークスセンター】という場所があって、そのヒーラーの方を訪ねて行きました。片言の英語で、「私はこういうことをやれるので、やらせてもらえませんか?」と言ったら、「ちょうど部屋が一つ空いているので自由に使いなさい」と驚くほどスムーズに受け入れて下さって、そこでお世話になりました。日本人の旅行者の方を相手にセッションをして、バリ島にいる時間を楽しむ、という感じでした。
 それで海外に滞在する感覚に慣れて、この数年はそれに惹かれて、日本に戻っては旅を繰り返すような生活です。

___旅は、今までどんな所へ行かれましたか?

 インドへは何度も行っています。5年ほど前に初めて行って以来、毎回どこへ行くかを決めないで、その時々で足が向いた方へ旅をしています。インドの人は、場所によって気候が違うからリズムや性格も違うのですが、とにかく一人一人がとてもユニークで、その瞬間々々に生きていて、固定概念では括れないですね。
 よく行くのはプーナというところで、外国の方が多く居て、楽器を持って来ていたり、好きなことをして過ごしているような所です。
 旅での一日一日は凄く大きな衝撃で、毎日が平手打ちを受けているように、何かが自分をクリックし続けている感じがします。その中で、今の仕事に繋がるような方向が出来て来たんだと思うんです。

トータルな生と死


___webサイトの自己紹介では、子どもの頃の初めての記憶のことについて書かれています。どんな体験でしたか?

 生きていることが、何か不思議な感覚だったんです。
 何かを体験したという訳ではないので、何を見逃しているのかハッキリ分かってはいないのですが、自分が認識している世界というのは全体の一部分だけで、そこだけを見て生きているような感覚がありました。友達といても、何かが違うような感覚がしていました。

___「生きること」にについて、その有機的な繋がりを本能的に感じていたのでしょうか?

 そうかも知れないですね。
 「生きる」ということと同じくらいの比重で、「死ぬ」ということがそこにあったような気がします。実際にそういう肉体的な危機に瀕していた訳ではないのですが、毎瞬がギリギリで、生きるんだったら本当に全部を味わい尽くして、死ぬときはバタンとトータルに死にたい、という思いがあったんだと思います。
 それが、子どもの頃は自分で把握できていなかったし、言葉にすることは難しかった。一人で崖の上に登って、「ワァー!」っと野生のような雄叫びをあげたりした記憶があります。(笑)何かがズレているんだけれど、それが何なのか全く自分でも分からないし、それを見ている周囲の人も訳が分からなかったと思います。
 大人になって旅をするようになってから、「あぁ、きっとこういうことを私は求めていたんだ」と、パズルが一気に合わさって、ストンと腑に落ちるようになってきました。
(つづく)



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