Archive for March 2008
31 March
放送時間変更のご案内
FMおだわら(78.7MHz)の放送スケジュール改編にともない、2008年4-6月期の放送時間が以下の通りに変更いたします。soulbeauty.net
[放送時間] 毎週日曜日 19:00 〜 20:00
[再放送] 翌月曜日 23:00 〜 24:00
⇒ 詳しくはFMおだわらまでお問い合せください
2008年4月〜6月期タイムテーブル
30 March
はじまりの春
1
何故私はここに来てしまうのだろう。回り道だってあるというのに。
早朝の暗闇の中に、ぼんやりと見える上り階段。ここを上れば学校まで程せずに着くが、暗い間は通りたくない。
左手に墓、右手に公園が望める。どうしても、私の想像力を不本意な方に掻き立てるのだ。
下から見える限りでは墓も公園も見えないのだが、突然開けてそれが現れる。
その不意打ちも、また嫌だった。
空は徐々に明るさを帯び始め、階段の上では街灯の灯が消えた。
私は、石段を1歩踏み出した。
きちんと段数を把握しているわけではないが、30段程の苔むした階段である。
少し上れば、墓と公園が見えてくる。
公園は中々の広さで、見下ろすような桜が数本、並んで咲いている。管理はされていないのか、雑草が生い茂っている。
遊具といってもブランコと鉄棒が取り残されたようにあるだけだ。子供が遊んでいるのも見ない。
遊具や墓が目の前にあることもあるだろうが、1番はこれだろうと考えている。
立ち並ぶ満開の桜に混じって、黒い大きな桜がある。魔女が手を振り上げてるような様だ。
黒い――というのは火によって焦げてしまったもので、木が死んでしまっているのかはわからないが、花を付けた所は見たことがない。
ここには、以前家が建っていたらしい。
不注意から火が起きて全焼し、沢山のものが燃えてしまった。
大きな桜と一緒に、大事な息子までもが犠牲になってしまった。
彼の家族は今、遠くで暮らしている。
しかし墓は、ここにあるのだそうだ。
黒い桜も、そこが家だった時には花を付け、家族の目を楽しませたことだろう。
今は蕾すら付けない。
私はいつものように階段を上っていた。
公園を通り過ぎて直ぐ。きい、と濁った高い金属音がした。背後でブランコが鳴ったのだ。
誰も居なかった筈だ。風だって、無風に近い。柄にもなく驚いて振り返る。
厚い雨雲を抱えた広い海が、静かに騒めいている。
2
風がけたたましく鳴っている。叫び声のように聞こえた。
昨夜から徐々に聞こえる勢力を強めている嵐は、のしかかるように重たい。
「こんな風じゃ歩けもしないんじゃない?」
質問ともわからないことを、母は言った。
「それなのに父さん大丈夫なの?」
「平気だって」
母は欠伸をしながら台所に消えた。もう夕飯時か。
庭に出る窓から外が見える。植木鉢などは全て片付けられている。
風に揺らされた木を見ていると、もう風向きなんてものもわからない。
隅の方で、小さな子供の影が動いた。
まさか、と立ち上がり窓に駆け寄るが、もうその姿は見えない。
窓に手を掛けると、凄い圧力がかかっている。両手で横にずらし、取り残されたサンダルを引っ掛けた。
温かな風は本性を現したのか、切り裂くような速さで私向かってくる。雨はそこまで強くないが、痛い。
風が目に見える筈がないのに、その動きが見て取れるようだ。
まるで直感的に、私は外に飛び出した。
あの影が誰だか――何なのかも、わからないのに。
低い風の音の中に、例の金属音が聞こえる。
――ブランコだ。
ふと顔を上げると、あの階段が伸びていた。
風の合間に、ブランコが揺れる音がする。規則的な高音。
誰かが漕がなければ、あんな音にはならないだろう。
しかしこの嵐の中で、あの軽やかな音を鳴らすのは無理だ。
さっきから、非現実的な話が、自分でも不思議な程にしっくりとくる。
横殴りの風に急かされて、1歩を踏み出した。
雨なども気にならなくなり、首を持ち上げる。
黒い桜の木の頭が、屋根の上から見え始めた頃だった。
「何してるんだ」
横から掛けられた声に、私は肩を跳ねさせた。
雨で黒ずんだスーツを着た父が立っていた。手に持っている傘はひっくり返っている。
我に帰ってみれば、確かに何をしていたのだろうと思った。
「そっちこそ」
私は声を張り上げる。
「子供を見た気がしたんだ」
父は真剣な顔で言った。顔に出すことはなかったが、私は驚いていた。
「私も、見た」
それだけ言って、振り返って階段を下った。
ざわざわと花びらが散り、みるみると視界を埋め尽くしていく。
ブランコの音はいつしか止んでいた。
3
さんさんと日の降り注ぐ、嵐の後の晴天。
そよぐ風は温かく、耳元で髪を揺らしている。からりと晴れた空を仰ぐと、小さな白い雲がぼっかりと浮かんでいた。
水溜まりにはふらふらと散らされた桜の花びらが浮かび、あの階段には桃色の絨毯が敷かれた。
誰に踏まれた跡もなく、水を受けて新雪のようにきらきらと輝いている。
3月の終わりの日。昨日までは色付いていたそれが、気休め程度の花びらを残して光っている。まだ風に任せて散っているのもある。
階段から、肌の白い女性が下りてきた。淡い色のワンピースを風に揺らし、穏やかな顔付きの中に多少の影を覗かせている。
頬から首にかけて、火傷の痕が見えた。
口元に微かに浮かんだ笑みを、私は見逃さなかった。
墓石にも公園にも、散った桜の花びらは、場所を選ばずに見える。
ブランコは清々しい風の中で小さく揺れている。
立ち並ぶ桜の木。それに混じった1本の黒。
私はその光景に息を飲んだ。
大きく広げられた枝には、満開の桜の花が付いている。
昨夜までは影のように黙っていた黒い枝が、さわさわと鳴っているのだ。脆く崩れてしまいそうに見えた幹も、生命力を溢れさせている。
桜吹雪と共に、墓地から線香の煙が流れてきた。
彼が喜んでいるのだろうか。
子供たちが階段を下りてきて、笑いながら公園に飛び込む。ブランコに飛び乗った子は、高らかな音を鳴らしながら空へ舞い上がる。
もうそこには、淋しさも恐怖もない。
喝采のような強い春風が、花びらの香りと一緒に何処かに飛ばしていってしまったようだ。
script / 木村 静花
23 March
『風にかえるアトリエ』
よく「石がすごく生き生きしている」と言われますが、
本当に生き物を扱うように扱っていて、
たぶんお花と同じ様にひとつの命をもって生きてるんじゃないかなって思っています。
本当に生き物を扱うように扱っていて、
たぶんお花と同じ様にひとつの命をもって生きてるんじゃないかなって思っています。
___どうして自然石を扱うようになったんですか?
もともと 天然素材の絹とか麻とかすごく好きでした。自然がつくった造形の中に人間が努力しても到底及ばないような素晴らしい姿を見た時に、あぁもう自然の力の方がスゴイんだって思って。
そしたらもう、半分は自然に助けてもらいながら、素晴らしい造形の原石を使って創作活動をやっていった方がいいんじゃないかなって。
___きっかけがあったんですか?
自然石を使ったネックレスを作るお教室があるからと友人に誘われて、そこで教えてもらったのがきっかけです。当時は今みたいに石を売ってるお店が少なくて、だけどその人の家にはいっぱい石が並んでいて、「あぁこんなのあるんだ。いろいろあるんだ」って思いながらひとつ自分のを作って。
そしたら何故かそのネックレスを着けてる時だけ無性に悲しくなって涙が出たりとかして、「あっ、石って何かあるかも」と思って。それが石の事を詳しく知りたいと思ったきっかけですね。何か心と関係してる気がした。
今もそうなんですけど、私が図書館みたいに満遍なくすべての石を揃えるっていう必要はなくて、自分がいいなと思う石を仕入れてきたら、それを求めてくる人と私が出会うという流れです。
よく「石がすごく生き生きしている」と言われますが、本当に生き物を扱うように扱っていて、たぶんお花と同じ様にひとつの命をもって生きてるんじゃないかなって思っています。結晶するのに百年単位で何ミリって結晶する石もあれば、鍾乳洞みたいにどんどん成長する石もあって、やっぱり人間の目に見えないレベルで成長してると思うんですよね。ある時色が変わったり、あるお客様が来ると急に綺麗になったりとか、そういうのを見ているとやっぱり「あぁ、生きてる!」って。
___だから「パワーストーン」と言う?
やっぱり生き物同士だから、反応するのでしょう。
人間同士でも、素敵な人と出会うと心がすごく高揚したり、自分がパワーをもらえたって思う様な事がありますが、それと同じようなことだと思います。
たぶん一番は、美しいものと出逢ってそれを自分が手に入れる事ができて、それを見た時に「あぁ美しい、綺麗だなぁ」と思う事が、すごく魂の栄養なのかなって気がしています。だから、あんまり、パワーストーンの種類とか作用とかはブッ飛んじゃって「あぁキレイ♪」ってウットリするのが、いちばん心が満たされる事なんじゃないかなと思います。
私が表だと思って飾っているものを、お客さまは反対側が美しいと思って、帰りに反対側を表にして置いていったりとか・・(笑)それもアリだなと思う。あぁこんな美しさを発見した、って。
私に合う石を探してくださいっていう事もすごく多くて、そういう出逢いをプロデュースすることも私の仕事でもあって、それは楽しい。魔法みたいで。(笑)
「人間にとって一番身近な風は、自分の呼吸だよ」って言われて、
この空とこの海とこの原生林の自然のリズムに戻りたいって思った。
この空とこの海とこの原生林の自然のリズムに戻りたいって思った。
___どうして真鶴だったんですか?
真鶴に遊びに来てるうちに、「あぁ、この空とこの海を毎日見ていたら、私の作風はもっと変わるかも知れない」と思って、新しい自分を見たくなったんです。
___土地と作品の関係性って面白いですね。
舞台のときも、いろんな人の舞台を観察して、いちばん大事なのは湿度かなって。例えば『アラジンの魔法使い」っていう砂漠のお芝居を観る時に、その乾いた風を衣装で表現できるか、装置として表現できるか、って。 お客さんがそれを感じることができるとすごく良いなって思った。
___肌触りですね。
はい。空気感。感じる世界。
この話で思いついたのは、私の石が「生きてるね」ってよく言われるのは、何か命っぽい呼吸してるような風を感じるのかも知れない。乾燥したただの石じゃなくて。
___だから『風にかえる』?
それは後づけでね。そうかも知れない。
この場所の名前を考えているときに、原生林の近くの海を見下ろせる所に座っていたら、凄く大きな風が吹いて、高いところにある楠の葉っぱがフワァって落ちてきて、一枚一枚がくるくるくるくる回りながら、目の前をヒューって横切っていたの。
「あぁ風だぁ」って思って、『風のアリトエ』にしようかなって思った。
その帰り道にカエルに会って、最初『風とカエルのアトリエ』にしようかと思ったんだけど、ちょっとモジッて『風にかえる』にしてみた。
名前を『風にかえるアトリエ』にした後に、整体をやってる方に「人間にとって一番身近な風は、自分の呼吸だよ」って言われて、「あぁ風にかえるっていうのは、自分の呼吸に戻るって意味があるなぁ」って。私自身も、自分の呼吸を取り戻したくて真鶴に来たようなところもあって、なにかこの空とこの海とこの原生林の自然のリズムに、私が戻りたいってすごく思った。
___ カエルのメッセージだったんですね! カエルは、南米ペルーでは神聖な動物とされているそうですね。
音楽をやってる人は、ゲコゲコ鳴くからか「音楽の神様」って言う人が多い。「癒しの神」と言う人もいて、カエルが鳴くと浄化の雨が降るって言う。
たぶん、かえる、元に戻る、っていうのは癒しでもあるし浄化でもある。その象徴っぽい気もする。でも「自分の呼吸に戻る」っていうのが、今の私には一番ピンと来てるんだけど。
癒しも、その創造力の一部分ですよね。
明日の自分を創っていく力。
明日の自分を創っていく力。
___海の波の回数は、人間の呼吸の周期に近いんですってね。
日常であれほどゆっくり呼吸するのは、なかなか出来ないですよね。
現代社会では、早く呼吸することを求められる。早足で歩くことを求められるから、その期待に応えるように、だんだん呼吸も早くなっていって、吐き出すのが少なくなって、溜まっちゃうんですね。
___ それに気づいたら、自発的に改善するコツがあるかしら?
自分の呼吸を意識することも、ひとつのコツかな。
私、作業中に息を止める癖があって、最近は作業が一段落したときに深呼吸するようにしてる。酸欠になればなるほど、妙にトランスに入ってくみたいなところもあって、その呼吸が作品のリズムになってくる。
___呼吸のリズムと言えば、海の波の回数が呼吸と近いから同調していくように、石にも波動があるんですよね。
そうですね。波にさざ波があったり大きな波があったりするように、石にも、形によって色によって違ういろいろな種類のリズムがありますね。
___石に触れるといろいろな感覚を感じるということは、やっぱり人は何処かでそういうことを感じるセンサーがあるということなのでしょうか?
情報は受け取っていると思います。意識のあるなしに関係なく。
例えば、ゆっくりおおらかに過ごしたいのに周りの環境はそうではないという時に、ゆっくりおおらかな感覚のする石を自然に手に取っちゃう。それで、その石を握ってるとなんとなくリラックスする感じがする。
___潜在意識で先に気づいているんですね?
はい。だから、石を直感で選んでもらうのは、今自分にどんな石が必要なのか潜在的に答えがあるからこそ、そこを手がかりに石を選んで欲しいからなんです。
潜在的なパワーや、自分を創っていく力って、本当に凄いですね。
___ 自分を創っていく力。。
はい。創造力。明日の自分を創っていく力。だから、癒しも、その創造力の一部分ですよね。
___たしかに「癒し」と「創造」は、そこで起こる出来事が同じドラマだと思います。
そうなんです。
古いものが片付いたとたんに、ドアがバーンと開いて新しいものがバーッと入ってくるのは、ほとんど同時に起きてきますよね。だから「癒す」というのはドアの前の荷物を片付けることで、片付いてドアが開けば新しい出会いやお金の流れだとかワーッと自然に入ってきちゃう。
お金持ちになりたいとか、ビジネスを成功させたいと言うのなら、最終的に、流れを止めているドアの前の荷物を片付けなくちゃいけない羽目になる。で、片付けると新しいものが始まる。
勇気はね、プログラムされてるんだよね。誰にも、もれなく!(笑)
選ばれた人だけが持つものではなくってね!
選ばれた人だけが持つものではなくってね!
___ところで、3年前のコラム『SoulBeauty』について聞かせてください。「そもそも“美”は、衣食住に対してどういう位置づけなんだろう?」という問いから始まったのですが、書いていていかがでしたか?
今読み返すと、よくまとまってると思う。びっくりするくらい。
ある石をお客さんが見つけて「あぁ綺麗」って言う時に、そのお客さんも綺麗なんですよね。石とお客さんと両方が綺麗だ、って思っていて、あのコラムでは、そういう日々感じているけど言葉になっていなかった事をまとめさせてもらったって感じです。
___書きながら気づいた事も多かったですよね。
テーマ毎にそこから引き起こされるものもあって、「海の思想」がそうでした。それがキッカケになって、ひとつのまとまりのあるものがそこから触発されて、それが今すごく大事になっている。
___「海の思想」がピンと来たのは、どういう部分だったのですか?
アクアマリンという、「海の女神」と呼ばれている石があるんです。
海って何でも受け入れちゃうでしょ。その中に魚も住めば、船が行ったり来たりもしてて、ダイバーがその中を泳ぐし、大型タンカーが座礁しても、それすらも海は「どうぞ」みたいな。そういう存在って凄いと思う。川のように上から下に流れるわけでもなく、すべてを内包してる。
___すべてが繫がっている。
たぶん空気もそうなんだと思うんだけど、地球の裏側までずっと空気だから繫がってるんだけど、あんまり実態がないから意識できない。海っていうのは、命のつながりをもっと理解しやすいかな。
___母性とも繫がりますよね。生命を育んだ海。
そうですね。「母なる地球」って言うけど、「父なる地球」って表現はない。すべてを受け入れる、って母性っぽいですね。
___どうして「父なる地球」って言わないんでしょうね?(笑)
ね(笑)。命を自分の中に宿す、という感覚は「母」っぽいよね。そこがとっても重要なんだと思う。
自分の中にはヒーラーや神はいないと思っちゃうのがそもそも間違いで、自分の中に答えも、創っていく部分も、癒していく部分も、全部その力はあるんですよね。自分の命をまるごと受け入れる感覚からスタートする。
___ 例えば、宇宙船が地球から離れて遠くまで飛ぶためにそれなりの体裁を整える必要があるように、男性性っていうのは、一旦宇宙のリズムから切り離された合理性があると思う。それが良さで、種という形にして遠くまで運ぶ。
多分、感覚的なシステムとか、身体やホルモンのシステムが違うんでしょうね。 それ故、すごく大きな仕事が出来る力になる。
___きっと今の時代は、着陸地点を求めてるのかも知れないですね。 運ばれた種が着陸して、母性的なエネルギーでそこからまた新しい次の芽が開いていくという。
宇宙船に例えるとしたら、外からエネルギーを入れないと走らない宇宙船だったのが 自分の中で燃料を創り出せるタイプに変わる時なんじゃないかな。
___環境問題も、きっと突破口はその辺ですね。
そうだと思う。外側から入れて外のものを食べ尽すというスタイルじゃなくて、自分の内側のエンジンや燃料が働いて循環していくシステムになっていくんじゃないかな、人間も。
___それは、気づけばできるでしょうか?
もちろんです! 本来、そうした方が、たぶん気持ちイイ。
初めて自転車に乗るときみたいなんだと思う。最初は乗り方が分からなくて転んだりするけど、乗ったら「ナンだ、こんな簡単♪」って感じ。
___人類が初めて二本足で歩いた瞬間もそうだったかも知れないですね。きっと周りはびっくりしただろうし。
赤ちゃんが歩く時、どうして歩きたいと思うかと言うと、お母さんが喜ぶからじゃなくて、 別な目線で見られるとか 好奇心の方がメインなんですって。ハイハイで床に近い目線だったのが、ちょっと高い所から見ると世界が広がる。
___自発的な動機なんですね。
例えば好きなぬいぐるみがあって、そこに行くまでに、今までのハイハイで行った方が絶対早く取れるのに、 あえて難しい作業なのに立って行こうとする。 もちろん、 お母さんが喜んだ方が早くマスターするらしいんだけど。
だから勇気あるんだよ!やっぱり。未知の方へ、本能が自然とかりたてる。
___勇気、ありますよねぇ!しかも、そういうことに気づくというのは、プログラムされたかのような奇跡ですよね。
うんうん、奇跡!
勇気はね、プログラムされてるんだよね。誰にも、もれなく!(笑)選ばれた人だけが持つものではなくってね!
[Read more of this post]
16 March
神の視点 〜全体と部分〜
「インナー脳=本能」と「アウター脳=理性」
___野見山さんは生理解剖学のワークショップを主宰されています。そのワークショップを通して「バランス」ということをメッセージに込めてらっしゃいます。
「アウター」と「インナー」の話ですね。「インナー脳=本能」と「アウター脳=理性」。インナーマッスルとアウターマッスル。どちらも大事で、どちらも否定されるものではない。まさに「バランス」ということに尽きると思います。バランスが良い状態が、心地良い状態なのかなと思います。
___「インナー脳」と「アウター脳」というのは、野見山さん独自の用語ですね。
そうそう、勝手に僕が使ってるだけ。(笑)
___その解釈で、意識と無意識の関係性も説明なさっていました。
インナー脳は本能だと説明しました。本能ってスゴク大事だなと思うけど、僕たちはこうして進化してきた理由がある筈で、アウター脳まで進化して理性が出来た意味というのがある筈なんです。だから、インナー脳もアウター脳も両方とも活かしてあげることが大事だと思います。
___人それぞれで、インナーとアウターのどちらかが優位になります。インナー優位の状態をヤジロベエに、アウター優位の状態を茶筒に喩えてらっしゃいました。
インナーマッスルは「軸」です。でも「軸」だけだと外からの強い攻撃に対して、ゆらゆら揺らぐことは出来るんだけど、もうちょっと安定感が欲しい。そういう意味で、アウターマッスルがあると「鎧」のようにホールドしてくれる。でも「鎧」だけだとガチガチで身動きが取れない。
「鎧」は少ない方が良いように思いますけど、最小限の「鎧」があった方が、僕たちは安心して生きて行けるような気がします。
___東洋と西洋の文化についても、それに喩えてらっしゃいました。
「禅」の文化って、削ぎ落とす文化ですよね。余計なものを削ぎ落として行くと、実は内側に素晴らしい光があるんだよ、という考え方です。日本の料理は、余計な味付けをせずに素材の味を大事にしようという方向性です。西洋の料理は、逆にデコレートしてソースで味付けをして行く。
それもまた、両方大事なんだと思うんです。その東洋と西洋が融合されて、まさに「和」の文化です。それが、21世紀の今、起こっていることなんじゃないかなと思っています。
ズームインとズームアウト、全体と部分、その両方を交互に自由自在に行ったり来たり。
神様がいるとしたら、きっとそんな見方をしていると思います。
神様がいるとしたら、きっとそんな見方をしていると思います。
___体のパーツをズームインする視点と同時に、ズームアウトして全体像をみる大切さをおっしゃっていたのは、そういうことにも繋がってきますね。
20世紀後半までは、物事を切り刻んで細かく分析して考えて行こうという時代で、しかも時代が速くて、効率化で突っ走って行く。それが行き過ぎると繋がりが見えなくなっちゃう訳です。自動車の高速教習でやりましたよね? 高速で走るほど、周りを見渡す全体観が見えなくなる。本当に一点しか見えなくなる。部分しか見えなくなる。そうすると、やっぱり不安だと思うんですよ。かと言って、すごくゆっくり歩いたり立ち止まると全体の繋がりが見えてくるんだけど、その時はボヤッとしか見えないですよね、
だから、ズームインとズームアウト、ゆっくりと速い、全体と部分、その両方を交互に自由自在に行ったり来たりできるようになると、すべてが3Dで見えてくると思うんです。神様がいるとしたら、きっとそんな見方をしていると思います。
そんな視点で体や社会を見て行くと、面白いですよね。
___多層的な世界観を持って見ると、どのレベルでも同じようなパワーバランスで物事が回っているように見えてきます。
「フラクタル」ですよね。
東洋医学ってそんな考え方を持っていて、部分の中に全体があってそれもまた何かの部分である。手のひらや足の裏に全身のツボがあって、足の親指の中にも全身を象徴するようなツボがあって、マトリョーシカの人形のような入れ子構造になっている。だから、足を一生懸命やれば全身が良くなる、というような説明をしたりする。
そんなことを考えていて思うことは、例えば胃が悪い時にその原因は何かと言えば、胃だけに問題がある訳ではなくて、体全体に問題があってその結果として胃が悪くなっている。じゃぁ、体が悪い原因は何かと言うと、家族間の問題であったり、社会全体の問題であったりする。じゃぁ、その原因は何かと言うと、地球全体のいろいろな問題であったり、環境問題であったりする。結局、どんどん視点をズームアウトして見て行かないと根本的な解決には至らない訳です。
たとえ人類が皆死んじゃうとしても、それが何かにとっての学びだったりする
地球レベルの学び、と言うか。
地球レベルの学び、と言うか。
「複雑系」の本を読んでいたら「一隅を照らす」という言葉があって、そういう構造であるからこそ一部分を心を込めて整えていくと他の全体にもそれが波及して行く、ということです。環境のこと、政治や平和のこと、グタグタでどうしようもないと思ったりするんですけど、それは小さな部分の、例えば自分自身の心の平和とか、家族間の平和とか、そこがしっかりしていればそれが波及して行く。
___世界を良くしていこうと思った時に、本質的には一人一人が気づいて変わって行くことが一番力のある変化なのでしょうけれど、伝え手の側として、それが伝わって行くスピードにジレンマを感じることはございませんか?
昔はそれでアツくなって憤っていました。ビーチクリーンにしても、サーフィンの後に毎回ゴミを拾っているのに「なんでゴミがなくならないの?」「なんでみんな気づかないの?」って。
それはワークショップでも同じで、こっちが教えてやろうとするほど、伝えようとするほど、変えてやろうと押しつけるほど、まさにアウター脳で肩に力が入ってダメなんですね。(笑)
今は淡々とゴミを拾っています。静かな深い想いは必要だと思います。そうすれば、案外自然に変わってくる気がします。もしも変わらなくても、それはそれで一つの流れなんじゃないでしょうか。
手塚治虫の『火の鳥』の中では、エピソードとしていろいろな地球の在り方が描かれています。争いを繰り返して、核戦争で人類が滅亡しちゃったり、それでもまた地球はやり直して新しい文化を築いて、それもまた崩壊して。それを淡々と火の鳥は遠くから眺めている。火の鳥って全知全能で永遠の命を持った者の象徴なのでしょうが、もし本当に何でも出来る知恵があるとしたら、きっと手を貸すのではなくて自ら学ぶのを淡々と待っているんだろうと思います。
環境問題の話でも、たとえこのまま環境が悪化して行って人類が皆死んじゃうとしても、それもそういう流れなんだなぁと思います。大きな視野で見ると、案外それが良いことだったりするかも知れない。それが何かにとっての学びだったりするかな、と思う。地球レベルの学び、と言うか。
[Read more of this post]
季節が動く日
何かに気づくこと。
それは、いつでも過ぎ去ってからやってくる。
「あぁ、そうだったんだ。
そういうことだったんだ」
ある時、唐突に、
すべての繋がりにハッとする。
どんな準備も、
どんな予感も、
季節の前には 訪れない。
気づいた時には、
スデに、スベテが、ハジマッテいる。
季節はいつも一瞬で変わる。
変わらないのは、人の「意識」
何故って、
誰もが、自分の人生は昨日からの続きだと信じているから。
季節が動く日。
まるで抜打ちの試験のように、人は心構えを問い詰められる。
そして、迎えの使者が来て、
準備が出来た者だけを、次の季節へ連れて行く。