Archive for 20 April 2008

20 April

絵の役割

artist file "tanebito" #15 [3/3] 
須藤 一郎 さん(美術館館長 / すどう美術館

「絵」というのは、社会性を持っているんです。
人間に生きるうえでの大きな力を与える、それが「絵」の役割ではないのかなと思います。


___「見てくれることによって絵は役割を果たす」とおっしゃいました。役割とは、どういうことでしょう?

 「絵」というのは、社会性を持っているんです。だから自分が好きで描いているということでも良いのですが、例えば展覧会をやりますと、絵の前で動かないで涙を流す人もいっぱいいるんです。絵を見て、自分の過去だとか、そういうものと繋がって感動したりする訳です。
 私が良い例です。私が「絵」に関心を持つようになったのは、まさに一人の作家の絵なんです。

___ 菅創吉さんですね。

 ええ。「絵」は人間に生きるうえでの大きな力を与える、あるいは、人生を変える力があるんです。私は人生を変えられてしまって良かったのか悪かったのか、と思っていますが。(笑)
 だから、絵を見てもらう、あるいは、絵を見せるということが大事だし、それが「絵」の役割ではないのかなと思います。

___菅創吉さんの『壷中』という絵との出会いがキッカケだったそうですが、それで須藤さんは何かに目覚めてしまったのでしょうか?

 そうですね。
 美術について特別に関心があった訳ではなかったのですが、たまたま伊豆に縁があって、池田20世紀美術館を時々覗くようになったんです。もちろんそれまでも美術館に行ったりはしていましたから、それほど無関心だった訳ではないですが。
 ある時、今まで見ていた絵とはちょっと違う絵に出会って、何か暗いような感じがしたり、形があるような無いような、「こんなのが絵なのかなぁ?」と、もうひとつ分からなかったんです。やっぱり、風景や花が絵だと思っていた時期がありますから。
 それでも30分くらい見ているうちに、だんだん体の中に染み込んで来たんです。それはまさに作家の生き方が伝わって来たのでしょうね。そうすると、暗く渋いように感じた絵にユーモアや暖かみが見えてきて、「そうか、絵というのはこういうものなんだ」と考えが変わったんです。それで、この人の絵がどうしても欲しいと思って館長にお願いして、何点か見て選ばせてもらったのが『壷中』なんです。
 実はその時、『壷中』は館長の部屋に飾ってあったんです。だから、私は『壷中』という作品で人生が変わったということになったりしていますが、言ってみれば菅創吉という人全体の作品なんです。

___菅さんの作風に、須藤さん自身の何かが投影されたのでしょうか?

 その頃は何も知りませんでしたし、こうして作家さんとつき合いが出来るとは思っていませんでした。この方も亡くなった直後でしたから会うこともなかったのですが、後から勉強したり話を聞いたりすると、自由さがあって面白い人だったんです。
 小さい頃、お父さんが芝居に連れて行ってくれたりして、絵が好きだったんです。お姉さんの援助で日本画を習ったこともあるようですが、ほとんど独学です。30歳を過ぎてから満州に渡って、広報の仕事でポスターを描いたりして、戦争が終わって日本に帰ってきて、進駐軍の人に絵を教えたりしていた。芝居が好きでしたから、満州にいた時代に自分で劇団を作ったりして、その縁で森繁久彌さんとつき合いが出来た。53歳になって初めて絵だけで生きるようになるまで、毎日新聞の嘱託で挿絵や漫画を描いたりしていました。その頃、手塚治虫さんとか漫画家の方とも親しくおつき合いがあったんです。そして、58歳でアメリカの荒波の中に行ったんです。そういう自由人だったんです。
 お金にも執着しないで、「自分の絵は50年経たないと分かってもらえない」と言って、すぐ売れるような形で描こうとした訳ではない。そういうようなものが、まさに私の気持ちと結果的に繋がっていたということでしょうか。

___作品以上に、その作り手の生き様という部分に興味がおありなのでしょうか?

 それは結果かも知れません。絵を買い始めた頃は、作家の人には全然関係なく、絵が気に入ったかどうかで買っていました。やっぱり、人を知っているから絵を買うというのではなくて、まず絵が良いかどうか、気に入るかどうかということで、結果的に、その背後の人間が繋がってくるという感じなのではないでしょうか。

絵が残って行くというのは、
絵が良いということと、誰かそれを支える人間の力と半々なのではないでしょうか


___須藤さんがなさっているのは、作り手の方と、その作品を見る方との間を取り持つ仕事なのですね。

 そうですね。
 例えば見に来て下さる方には、抽象画ばかりですから、知識ではなくて感覚で良いということを伝えています。洋服だってネクタイだって、みんな抽象なんです。それを自分で選んで買っている訳です。そういう抽象の世界に生きている訳です。それを、絵だからと言って構えてしまうんです。絵を見て「分からない」と言って苦しむほどバカバカしいことはないんです。絵は楽しむため、豊かになるためにあるんです。「高いから良い絵ではなくて、安くても自分の目で見ましょう」とお話をします。
 絵を描く方には、自分自身が作品なんだという話をしたり、その覚悟の話をしたりします。

___これは私の考えですが、「美しさ」には「循環」の概念がとってまわるように感じています。美しいと感じることによって、エネルギー的なやり取りがあるのだと思います。須藤さんのお仕事のスタンスには、そういう意味で、とても共鳴するものを感じます。

 ありがとうございます。
 大したことをやっているとは思いませんが、会社の生活はタテの社会でしたが、こうしてヨコの社会も経験出来ていろいろな人との関係が繋がりました。そういう意味では、すごく幸せなんだろうと思います。
 「美しさ」ということについて言えば、本当の「美」はただ「美」だけではないんですね。

___須藤さんのエッセイの中にも、「汚れていて美しい絵、描けそうで描けない。美しい絵でもない。そして、美しくて汚れている、絵でもない絵。」という表現があります。

 やっぱり、表面ではない美しさがどれだけ出てくるかということなのでしょうね。二科展の理事長をなさっている織田広喜という方は、「下手は宝です」という話をしています。要するに、上手くキレイに描くことが大事ではなくて、下手でも自分しか出来ないことを出せば良いのだという意味ですね。「汚れていて美しい絵」というのは、まさにそういうことだと思います。
 だから絵が残って行くというのは、絵が良いということと、誰かそれを支える人間の力と、半々なのではないでしょうか。純粋に応援する人が出て来ていれば、もっと評価される作品というものもあるのでしょうね。出来るだけそういう方たちを見出して行きたいですね。売れる売れないと言う以上に、正しい評価をしていく人が増えると良いと思っています。

___絵は絵だけでは持ちこたえられないというお話ですが、人間と環境との関係にもあてはまるかも知れませんね。

 そうですね。
 一見迂遠なものが人間にとっては大事ですが、目先のことばかりで生きてしまっているような感じがしますね。環境のことも、どれだけ皆が真剣に考えているのか。絵のことも、本当は必要なのになかなか分からない。でも、少しづつでもそういう意識を持った人が動けば、増えて行く。
 そういう迂遠なもの、自分のメリットに跳ね返って来ないものに対しては、何でも後回しにしてしまいがちですけど、それでもこういうことをずっとやって行くと、その大事さを知ってくれる人は増えてくるんです。だから環境の問題についても、温暖化に対して各家庭でどうしたら良いかも含めて、少しづつでも実行する努力をして行かないといけないと思います。
 美術のことでも、行政を待っていてはダメなんです。上からのお仕着せではなくて、下から盛り上げて行かないといつまでたっても良くならない。ゆとり教育などという変化があったりしますけど、図画工作などは端に追いやられてしまうんですが、海外留学でベルギーに行った子の話を聞いたら、美術の時間がやたら多いんだそうです。それで、受験のこともあるのでしょう、先生に文句を言ったんだそうです。そうしたら先生がビックリして、「こういう美しいものに触れる時間が多いことが、どうして悪いのですか?」と反論されて、それでハタと分かったと言うんです。
 日本では美術に関心のある政治家なんてほとんどいませんでしょ。海外ではたくさんいるんです。小さい頃から先生が美術館に連れて行くといえば、「事故でも起こったら大変だ」ということになると言って、そういうこともほとんどしていません。そうすると、誰を最初に教育すれば良いのか?(笑)
 子どもに自由に絵を描かせるように教育するためには、先生を教育しなくてはいけない。親の問題もあります。お役所をアテにしていてもダメです。だから、とにかく、下から盛り上げて行くより仕方がない。
 私は「出前美術館」というようなこともしていますが、いろいろな形でいろいろな人に絵を見てもらいたい。まだ私のところだけやっていても点ですけどね。もっと多くのところが関わり合えるようになって、点が面になって行かなくてはいけない。そうすれば、ずいぶん変わってくるのでしょうけど。
 それこそ迂遠な話になりますが、まさに種を蒔いている段階なんだと思います。



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20:00:00 | milkyshadows | |