Archive for 04 May 2008
04 May
エコ(Eco) / エロ(Ero) / エゴ(Ego)
自分の中にある過去からの記憶、自分が生き抜いてきた智慧、
自分のDNAを、自分の師としたんです。
自分のDNAを、自分の師としたんです。
___『食禅(ジキゼン)』というワークショップを全国展開なさってらっしゃいます。
去年はアメリカ西海岸を廻りました。ここ4年くらいやっています。「座禅」が座る禅なら、食べる禅があっても良いだろうと、私が始めました。「応量器」という食器があって、それを扱う作法がとても素晴らしいんです。茶道も、そこから派生した作法なんです。
精進料理は基本的には一汁三菜(ご飯、味噌汁、煮物、和え物、漬け物)で、実際の応量器は6個あるのですが、私は作法を教えたいので三つ椀を使ってお粥でやっています。一汁三菜だと食べ終わるまでに2時間以上かかってしまいますから、正座でそれをやると足が痺れてしまいます。(笑)
袱紗に包まれていますから、その解き方・縛り方、全部に決まりがあって、最近は不器用な方が多いですからなかなか出来ないのですが、ものすごく合理的な作法なんです。
___私も体験させて頂きましたが、その作法は無駄のない一連の流れで、様式美を感じました。
無駄なことをするから間違えるんです。(笑)単純に考えればそれが一番良い方法なのに、勝手に想像してしまって、かえって難しくしているんです。
___器の持ち方や箸の持ち方が、通常の感覚とは違います。箸先を右に向けて置くのですね。
そうすることで、そのまま器を持ち上げた時に箸を持ち替えなくて済むんです。
___究極のテーブルマナーですね。
800年も前からそうしているんです。
何よりも素晴らしいのは、応量器の中の一番大きい器を「頭鉢(ズハツ)」と言って、お釈迦様の頂骨をデザインしたものだとされているんです。つまり、仏像はなかなか触れることが出来ないですが、応量器には毎食口を付けたり触ったりしますから、お釈迦様に直接触れることができるという訳です。
___お釈迦様の頭蓋骨で頂くというのは、生々しい感じもします。
ネイティブな文化では伝統的にあることです。チベット仏教でもそうですが、高僧とされる方の頂骨に漆をかけて、それで飲み物を飲むんです。日本の戦国時代でも、勇猛勇敢な武将が亡くなった時にその頭蓋骨に金箔をかけて杯にして、そのエネルギーを頂いたんです。
___とても尊い作業なんですね。
「食禅」は「コミュニケーション・アート」だと私は考えています。食事の中の、研ぎすまされた部分です。その中に、お釈迦様からの2000年の時の流れを受けて「今」があるんです。そのお釈迦様とのコミュニケーションであり、800年間のお坊さんとのコミュニケーション、大地とのコミュニケーション、宇宙から繋がった自分と食べ物とのコミュニケーション。
食事って、本来そういうコミュニケーションなんです。素晴らしいアートだと思います。
___片付ける時も、食事が終わると全部の器をタクアンとお湯で洗って、そして最後にそれを飲み干してしまう。
本来はそれを流してしまうんです。でも食べ残しはもったいないので、それを飲み干してしまうんです。自分が下水になるということですね。そして、必要な栄養分と不要なものとを体の中で分けて行くんです。
___そして、飲み干すと同時に器もキレイになっている。
エコでしょ。(笑) 最後は「如天甘露味」と言って、天の極楽のコズミック・スープなんです。
本当の原点ですから、これは世界のどこへ行っても分かってもらえます。茶道もブームになっていて、ものすごく真剣ですね。
___禅では動物性の食べ物は摂らないのですか?
出されたものは、基本的に何でも食べるんです。時代によって法があったりしましたが、決まりではないんです。
___アメリカでは、お粥ではなくてシリアルが出されるそうですね。
そうです。ヨーグルトも出てきます。私が行った道場では、必ず抹茶を出してくれるんですが、チョコレートと一緒です。(笑)
___それは、その土地のものを食べるという「身土不二」の考えなのでしょうか?
「マクロビオテック」に「禅」を付けて「ZENマクロ」という言葉があります。「身土不二」というのは、その土地の四里四方のものを食べようという考え方です。
でも、日本食を食べるようになった最初の頃のアメリカ人は、どうもそれに慣れなかったようです。禅の道場で、お粥ばかり食べていて耐えられなくなって、そこの住職さんに頼み込んだらしいです。それからチェンジしたみたいです。
___そこまで禁欲的でなくても良いということなのですか?
戒律ではない、ということです。ルールを決めるのは師匠なんです。だから禅では、どの師匠を選ぶのかということが大事です。この人に騙されるなら本望だと思えたら良いですね。(笑)
私の場合は、そういう師匠だと思っていましたが、そうではなかったですね。キッカケは作ってくれましたが、感性が全然違っていました。
ですから私は、自分の中にある過去からの記憶、自分が生き抜いてきた智慧、自分のDNAを、自分の師としたんです。
私は、野の草に戦略を感じるんです。
彼らはしたたかですよ。まさに「野心」ですね。(笑)
生きる為に存在しているんです。ただそれだけです。
彼らはしたたかですよ。まさに「野心」ですね。(笑)
生きる為に存在しているんです。ただそれだけです。
「3E」ということを私は言っています。「Eco,Ero,Ego/エコ、エロ、エゴ」です。
「エコ」ということは、私たちは宇宙という大局の中にいるということです。その中で、花だって2つの性を持っている訳です。だから私はどんな小さな存在にも「エロ」を感じるんです。そして、そこにある戦略が「エゴ」なんです。結局、この3つの醸し出し方なんです。
大上段に「エコ」などと言っても、何も変わらないでしょ? 「エロ」だって、実は大事なことですが、自分のことが分からないとなかなか難しい。そして「エゴ」はいけないと言うけれど、この世にエゴでないものなんて何一つ無いんです。
だから、分かってもらう為に存在するのではなくて、生きる為に存在しているんです。ただそれだけです。
___その「存在」に寂しさを感じるのは、どうしてでしょうか?
それは「エゴ」を認めて欲しいからでしょう。と言うよりも、むしろ「エロ」の方かも知れません。女性性だとか男性性だとかの問題でしょう。どちらかの性を持っている訳ですから、寂しさが癒されるということは、それを認めてもらえることでしょう。
今の時代、その問題は解放されたようで、実は全く解放されていないんです。自分がどんどん狭められてきていて、人を愛することに制限をしなければいけなかったりするんです。そして、とてつもない寂しさに駆られるのではないでしょうか。
だから私は、野の草に戦略を感じるんです。彼らはしたたかですよ。まさに「野心」ですね。(笑)彼らは手を組むときは組むけれど、所詮は「エゴ」なんです。人間だって本来そうです。「みんなで手を結ぼう」と言うけれど、いったい「みんな」というは誰のことでしょう?「個」が幸せでなければ全体は機能しないんです。
でも、社会というのは何かの犠牲の上に成り立っています。個人が個人として認められた社会なんて、今までありません。世界は「エゴ」ですから、誰もそんなことを認めないんです。だから、認めてもらう為にいろいろなことを身に着けて来たんです。花だって、ハチに認めてもらいたくて葉っぱに色を着けたんです。
___「個性」ということについて考えることがあるのですが、自分らしくありたい思う反面、自分らしく振る舞うことに抵抗を持っている方が多いように感じます。
それは、自分を自分が評価してしまうからでしょうね。しかも、その評価の基準が他人にあるからでしょう。「良い評価」というものを選んでいる訳です。誰も本当はあなたのことなんか受け容れていない、ということなんです。(笑)
例えばキャリアが大切だと言うけれど、そのキャリアが自分に無ければ「自分はダメなんだ」と評価して、それに追い立てられているんです。その人の持っているものをそのままで受け容れてくれる場所がどこにも無くて、親ですら「素のまま」を受け容れてくれなかったりしますから。
ですから、如何に「エゴ」を醸し出して行くのかということしかないんですよ。だって「エゴ」でないと分からないし、できるなら「良いエゴ」に騙されたいですよね。(笑)幸せはそこから始まるんです。
すべて物質はデザインする力があって、それは形を残す為なんです。
だから、私たちはデザインそのものなんです。
つまり宇宙には「意志」があるんです。
だから、私たちはデザインそのものなんです。
つまり宇宙には「意志」があるんです。
___捨てて行くことは、難しいことです。
着ているのかどうかも分からないからでしょうね。
何枚脱ぐかと言ったら、何枚着ているか分からないと脱げない。知らない間に着せられているから、着せられているのかどうかも分からないし、だから脱げない。
___着ていることに気づかないといけない、ということですね。
無理矢理引き剥がしたりしないと分からなかったりします。
そういう意味で、私にとってアートは「魂のストリップ」なんです。作品は、私が脱いだ服なんです。自分を表現するということは、脱ぎきって初めて成立する。自分の中にあるものを、包み隠さず表現する。それでも、脱いでみてまだ着ているものが見えてくるんです。
___それは、どこまで行っても脱ぎきれない、、
そうですね。何万年という「私」の歴史がある訳で、枯渇することはあり得ない。
___DNAの来し方行方、ということですね。
DNAだってデザインでしょ? すべて物質はデザインする力があって、それは形を残す為なんです。だから、すべてはデザイン、つまり宇宙には「意志」があるんです。私たちはデザインそのものなんです。だからそれを思えば、どんな人でも崇高で、何を見ても私は感激します。
ファッションもそうです。あなたの持っている「心地良さ」が、そこに表れているんです。何万年を生き存えて来た「私」が「心地良さ」と合ったということです。
___そういう視点に到達できると、この宇宙は過不足がないですね。
ただ「遊べ」と言っているだけです。目の前にある何を見ても、楽しくてしょうがない。(笑)
「美しさ」って、いろいろあるんです。シンメトリーであったり、そういうものを美しいと感じるように私たちは出来ているんです。生物学的な美しさって、数学なんです。数学が無いと、何回も同じものをコピー出来ないですから。
___数学も「禅」ですよね!
でも、数学は究極の「騙し」ですから。コピー作ること自体がね。だから、おカネにならないことはやらないでしょ?(笑)
世の中すべて「騙し」なんです。だから、その「騙し」に乗ってあげないとつまらなかったり、乗りたくなければ乗らなければ良いんです。
『地蔵カフェ』
___禅を遊ぶ『地蔵カフェ』ということをなさっています。
寺にカフェがあって、好きな時にお茶を飲みに行けたら良いと思ったんです。そういう場所があれば、和尚さんとのコミュニケーションが取れる。お坊さんって、一人一人がみんな面白いんです。でも、その良さがなかなか出し難い。それを私はオープンにして、自分のアートや精進料理を出したり、食禅をやったり。
永平寺では春先から梅雨にかけて山に作務に入るんですが、その時に出てくるおにぎりが美味しいんです。それを「山作務ランチ」や「修行定食」として出したり。(笑)スペースを借りたりすることもあるし、「そういうものを食べたいから」と呼ばれたらそこへ行きます。料理が好きな弟子だったので、一緒にアメリカにも行って車で展開していました。
今年は『食禅ツアー』ということをやっています。カフェだからどう、ということではなくて「よろず相談」なんです。
今やりたいのは、トランスパーティのDJを自分がやって『地蔵レイブ』とかね。(笑)
___『地蔵レイブ』ですか!
私たちは800年からの伝統がありますから。だって盆踊りは「盆ダンス」ですよ。(笑)
___そんな風に融合させて行く感性は、横須賀に育ったことが影響なさっているのでしょうか?
そうだと思います。やんちゃなところはありますね。自分の中では、桃山や歌舞伎の婆娑羅な感じがあったりします。何か世の中が気に入らなかったり、偉そうな顔が嫌いだったり。そういうことをどうしたらユーモアのネタに出来るか、と思っています。
禅宗の坊さんって、変な奴ばかりで面白いですよ。
(つづく)
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