Archive for 11 May 2008
11 May
野良坊主の地蔵菌
昔は寺に行けば、そこがその時代の最先端のテクノロジーやアートが見られる所だったんです。
それを伝えるのがお坊さんの仕事なんです。
私のような野良坊主の生き方が、本来のお坊さんの生き方なんです。
それを伝えるのがお坊さんの仕事なんです。
私のような野良坊主の生き方が、本来のお坊さんの生き方なんです。
お坊さんというのは、本来はトレンディなんです。昔は寺に行けば、そこがその時代の最先端のテクノロジーやアートが見られる所だったんです。それを伝えるのがお坊さんの仕事なんです。私は、こんなヤクザみたいなフリーターの坊主なので「野良坊主」と言っていますが(笑)、私のような野良坊主の生き方が、本来のお坊さんの生き方なんです。
これから私がやりたいことは、「本当のトランスを教えてあげる」ということです。「トランスを扱っているのは坊主なんだゼ!」って。(笑)「Eco,Ero,Ego/エコ、エロ、エゴ」を盛り込んだ総合的なパーティをやりたいと思っているんです。
「本来の面目」という禅の言葉があるのですが、本来何を求めて生きて行くのか、ということです。その答えを見つけることが「祭り」の役割になってくるんです。
___その「祭り」としてのトランスパーティということでしょうか?
そのパーティの出来上がり方が、次の時代のキーワードになるのではないかと思っています。
___出来上がり方?
もうどうにもならなくなっているので、再構築したい訳なんです。環境にしても、金融にしても、食べ物にしても。そして人間がどんどん弱くなってしまっているんです。
___それは、菌のレベルで、ということですね。
だって、その「菌」をつくったのは「祭り」だったんです。昔はフリーセックスでしたから、「踊り/オドリ」は「男取り/オトコドリ」だったんです。だから、エロティックでセクシーでなかったら「祭り」じゃないんです。本当の意味で学べば、変な性被害は無いんです。
ただ、どうなるかということは私にもコントロールが効かないですし分かりません。でも、とりあえず、未来の雛形の一つのデザインを見せられたら良いと思っています。
___楽しみですね。
だから「クラブ」というものは、ものすごく原初的な要素を持っているんです。踊ること自体がそうです。「テクノ」も大好きなんですが、アコースティックな要素を削ぎ落として行くと電子音の波形になる訳ですから、ものすごく禅的なんです。禅ではすべて鳴らし物で進行するんですが、打楽器はすべてのベーシックなんです。リズムは心臓の鼓動ですから。それを縮小したものが、茶室の世界なんです。
面白いことはいっぱいあるんですが、誰も野良坊主を相手にしてくれないんです。(笑)
「妄想」と「莫妄想」
___「禅」と「エロス」は対極のように感じますが、、
いいえ。あるがままですから。
___陰極まれば陽に転ず、というような東洋的思想でしょうか?
私にはそういう考えがあります。いろいろな人がいて、自分にとって異性は女性しかいない訳ですし、どう考えたってそういう仕組みに出来上がっているんです。
「菌」を考えると面白いですよ。私たちの体には約100兆個の菌がいて、それを考えると、私たちをコントロールしているのは「菌」だと思えて仕方ないんです。どうして男女が求め合うのかと言えば、実はその人の菌が欲しいんじゃないのか、って。(笑)
だって、そうすることで菌は戦略的に強くなるわけでしょ? 惹かれ合うということは、その人の菌が欲しいということです。菌同士が決めることですから、仕方ないです。(笑)
___肉感的に分かる気がします。(笑)その考えはリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』に繋がりますね。しかも「遺伝子」や「ミーム」と言うよりも「菌」の方が生々しい気がします。
そうですね。生々しいしリアルです。
___なるほど。そう考えると、最近の花粉症などにしても、菌のレベルでおかしくなっているのかも知れませんね。
そういうことでしょうね。さらに、菌を作りあげている物質のことを考えたらもっと面白いでしょ? 「禅」とは、そういう物質構造のことなんです。
___「禅」というのは、かなり生々しいんですね!
禅は、リアルを一番大事にするんです。と同時に、イメージを大事にする。
___カタチあるものに魂は宿る、ということでしょうか?
リアルは、捉えようとしたら捉えられないんです。
例えば、「今この瞬間」を認識するのに何秒かかりますか? 要するに「今」というのは予測の中にしか存在しないんです。私たちの頭の中は、すべて仮説で出来上がっているということです。仮説を組立てて行ってイメージが出来上がる。そして、それが失くなった途端に病気になるんです。
だから、私たちは常に「妄想(モウゾウ)」しなければ生きて行けないんです。そして、その妄想が正しいかどうかを確かめて行くということが禅の修行なんです。イメージで鍛えていって、それが結局は妄想なんだということを理解して行くんです。
「莫妄想(マクモウゾウ)」という言葉があります。禅では、「妄想」と「莫妄想」の違いがとても大切なんです。
___「妄想」と「莫妄想」?
簡単に言えば、考えて仕方があることと無いこと、です。考えても仕方がないことを考えるから、悩むんです。
禅では、その「考えても仕方がないこと」を切り捨てて、一番の髄に到達して問題を解決するんです。「死にたくない」と考えても死にますから、そう考えるよりも今を生きる、ということです。
___刹那的な世界観なのでしょうか?
そうではないです。そういう概念も関係ない訳です。「刹那的」と言うよりも、私たちが生きているのは「刹那」なんですから。
私たちの体の物質は、3ヶ月もすれば全部入れ替わってしまう訳ですし、ただ記憶がそれを繋げているだけのことなんです。だからこの瞬間にも、この体の中で生と死がある訳です。だから、私たちはイメージ力に負けているということです。
そのまんま、あるがまま。
それが実社会にどう繋がるかと言うと、
人間が何かの形で壊れた時に、再構築する素となる結晶を作ってくれる。
それが実社会にどう繋がるかと言うと、
人間が何かの形で壊れた時に、再構築する素となる結晶を作ってくれる。
菌は私たちの体に入ると、「自分たちは菌じゃないんだよ」と情報を流して、食べに来るミクロファージを騙すんだそうです。つまり、私たちの身体の中で行われている免疫システムを、菌は知っている訳です。戦略を持っているんです。一番知らないのは人間です。
___意志の力では抵抗しようがないですものね。
癌患者は、「コレが癌細胞で、コレがそれを食べて行くNK細胞です」というようなイメージ訓練をするんです。「大丈夫だ!」と思うことが、大丈夫なことなんです。このことはネイティブの人たちは昔から知っていたことで、スリランカの祈祷師は「病気はワクワクしないと治らない」と言って、劇を見せるんです。病気の役の人と、悪魔の役と、それをやっつけるスーパーマンみたいな役の人が出てきて、熱狂的な芝居なんです。
だから、禅で言っていることをその通り真に受けていたら生きて行けないんです。「ヴィジョンは持つな、無になれ」って。実はその反対なんです。つまり、「どんどん妄想して、どんどん間違いなさい」ということです。
コンピュータのメモリに喩えると良く分かると思います。「情報」は、どんどんアットランダムにインプットして行けば良いんです。でも、要らないことでメモリを食えば動かなくなる。つまり、妄想して暴走したら、答えを出す計算能力がどんどん鈍ってきて遅くなるということです。
「座禅」ということに効果があるとしたら、座禅をすることで「情報」が本来在るべきところに整理されるんです。私たちは本来、瞬間々々で反応できるように出来ているんですが、自分でコントロールするから変なものが付いてしまってアウトプット出来ないんです。整理されれば、引き出しから出しやすい。
___なるほど。
私も今こうして自分の引き出しを探しながら話していますが、必要じゃない時には出てこなくて良い訳です。目の前にいる人が私に対して鐘を叩くから鳴らしているだけのことです。そして、この人が何を訊きたいのかを探りながら言葉択びをしているんです。
人間って、本来そういうことが出来るんです。
___それこそが「コミュニケーション」ですね!
はい。そういうことが「禅」なんです。
___「今」の中に「永遠」があり、「永遠」の中に「今」がある。
それを出して見せろと言われて、出して見せるのが禅マスターの仕事なんです。
___どうやって見せるのでしょう?
「永遠」を見せろと言われたら、それは「自分」そのものなんです。ありのままの裸を見せれば、それこそ私がデザインし続けてきたものなんです。
___そこにすべてが込められている、ということですね?
それはあなたの受け止め方次第です。裸を見せて「セクハラだ!」と言われれば、それはそれで答えです。ならば「セクハラとは何か?」と禅問答になる訳です。それを徹底的にやり尽くして、莫妄想が出たところで師匠がストップさせるんです。
その、ストップさせることが一番大事なんです。座禅で「無になる」ということと同じです。つまり、妄想はしても、それにストーリーは作らないで、イメージを切る訓練をするということです。
___なるほど。出来事を繋ぎ合わせるということは、そこに思考が入ります。
思考が正しければ良いのですが、ほとんどが妄想で、間違ったイメージで答えを出してしまうんです。
考えている悩みなんて悩みではなくて、起こるべくして起こっている。分からないことを分からないままにしておくことも大事なんです。そのまんまでいることしか出来ないのに、何でも分かろうとするから大変なんです。
___それが「エゴ」ということですね?
「エゴ」だからいけないと言うのはないんです。「エゴ」は出さないと相手に伝わりません。それを避けたらコミュニケーションは出来ないんです。
だから、徹底的にリアルなエゴを出し合って行くのが禅なんです。そのまんま、あるがまま。男も女も、やってはいけないことは何一つ無いんです。思いのまま表現したら何が起こるのか、そしてその問題処理をして行くだけのことです。
それが実社会にどう繋がるかと言うと、別に役に立つ必要は無いんです。ただ、人間が何かの形で壊れた時に必要になってくるんです。再構築する時に、その素となる結晶を作ってくれる。
表現すべきことは「ヴィジョン」ではなくて、「自分」なんです。
ヴィジョンはあくまでも道具なんです。
それは、身に着けて行くことではなくて、一つ一つを脱ぎ捨てて行くという意味なんです。
ヴィジョンはあくまでも道具なんです。
それは、身に着けて行くことではなくて、一つ一つを脱ぎ捨てて行くという意味なんです。
___ヴィジョンは持つな、、、
私たちは、いろいろなものに影響されています。でも、表現すべきことは「影響されたもの」や「ヴィジョン」ではなくて、「自分」なんです。ヴィジョンはあくまでも道具なんです。
世の中が回って行くことよりも、あなた一人が人間として生きて行くことの方が素敵じゃないですか。だから「素敵なことを教えてあげますよ」と言うんです。そう言ってナンパも出来ますね。(笑)
でもそれは、身に着けて行くことではなくて、一つ一つを脱ぎ捨てて行くという意味なんです。
___なるほど。
禅の修行僧の、面白い話があるんです。
流れの早い川があって、女の人が二人、渡れないで困っているところへ、お坊さんが弟子と通りかかるんです。本来なら女性と直接触れてはいけないことになっているのですが、お坊さんは肩車をして女の人を渡してあげたんです。弟子は「こんなことをして良いのですか?」と師匠に訊くんですが、師匠は「お前はまだ背負っているのかい?」と答えるんです。(笑)「ワシはもう置いて来た」と。
___まさに禅問答ですね。(笑)
瞬間々々に恋心を抱いて、それで「どうぞ飽きるまでいてください」ということです。
惚れてるものは仕様がないものね。(笑)
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