13 April

「カリバラ」


誕生日の翌日から数えて3ヶ月を、
「カリバラ」と言うんだそうです。
一年のうちで、
お母さんのお腹にいることのなかった空白の3ヶ月。

私たちは、
お母さんのお腹に宿されてからの十月十日は、
お母さんとずっと一緒にいた訳ですが、
この世に産み落とされれた後の最初の季節というのは、
考えてみれば、
たった一人で息をする初めての季節なんですね。

 魂が、体に馴染んで行く為の、デリケートな季節。

無理をせず、大きな変化を控え、
穏やかにやり過ごすのが良いのだそうです。
魂の居場所が、しっかりと定まるように。。

 私にとっては、ちょうど今がその時期。
 春分頃から梅雨入り頃まで。。


時々、
私はいったいどこから来たのだろう、と
遠く耳を澄ませて、思いを馳せることがあります。

 この宇宙は、「無」から始まった。

深い夜に、静かに目をとじていると、
そのビッグバンの響きが、聴こえてくるような気がする時があります。
誕生の衝撃波は、
この身ばかりか 宇宙の果てまで響いてる。

 それは、
 くだけた波が ちいさな泡へと分かたれて行くような、
 シュワシュワとはじけては消えて行く 真夏のサイダーのような、、
 私たちは、
 そんな存在なのかも知れない、と思う。
 __残響が刻印された泡沫。

そう考えると、
人生は「無」へと帰る旅なのかも知れない。

けれど、こうして息を吸うと、
生命の記憶は、一息ごとに新しくなる。
泡のような囁きは、一息ごとに増幅されて、
それは、
永遠に響き合うシンフォニーのように、私には聴こえます。
motoka


19:50:00 | milkyshadows | |

06 April

「アート」と呼ぶ疎外

 
「アート」って、何だろう?

 ある時、ビジネスモードの話をアツくしていたら、
 「もと佳さんはアート系だからね」と言われたことがあります。
 その方は、丸く収めたつもりだったようですが、
 私はその時、ひどく疎外された気がしました。
 
 「アート系」という表現が、
 私にはとても冷ややかに聞こえて、
 まるで、「理解不能」と言われたように感じたんです。
 


「アートの定義」について思うこと。
 
 超キレイな表現や、
 ギョッとする異形の作品が「アート」ではないと思うのです。
 難しい顔をして、
 アトリエにこもるのが「アーチスト」ではないワケです。
 
 だから、私は「アーチスト」と呼ばれると疎外感を感じます。
 あぁ、私の想いは伝わらないのか、と。
 
 
 アートは志(こころざし)の隣にあるのが正しいと思う。
 アートは志を共有するための架け橋だと思う。
 志が共有されると、勇気が生まれる。
 そして勇気が、おぼろげな未来を手繰りよせる為の力を呼ぶんだと思うのです。
motoka




17:50:00 | milkyshadows | |

16 March

季節が動く日


何かに気づくこと。
それは、いつでも過ぎ去ってからやってくる。

「あぁ、そうだったんだ。
そういうことだったんだ」

ある時、唐突に、
すべての繋がりにハッとする。

どんな準備も、
どんな予感も、
季節の前には 訪れない。

気づいた時には、
スデに、スベテが、ハジマッテいる。


季節はいつも一瞬で変わる。
変わらないのは、人の「意識」
何故って、
誰もが、自分の人生は昨日からの続きだと信じているから。


季節が動く日。
まるで抜打ちの試験のように、人は心構えを問い詰められる。
そして、迎えの使者が来て、
準備が出来た者だけを、次の季節へ連れて行く。
motoka


17:50:00 | milkyshadows | |

09 March

「エッジ」


ヨガでは、一つの アーサナと呼ばれるポーズを、一定の時間ホールドすることをします。
この時には、自分の体を 最大の可能性まで広げるように、意図的に導いて行きます。
この、ギリギリの瀬戸際のことを「エッジ」と呼びます。
エッジについて


さて、この「エッジ」と呼ばれる状態ですが、
まさにギリギリのバランスを、しかも自らの意志で、導いて、保つワケですから、
普通に考えたら、それはとても困難で苦痛な作業のように思います。


その時に、選択肢は3つあると思います。

 1. 早くゆるめて、楽になること
 2. さらにチャレンジをして、その先を開拓すること
 3. そのままそこで、どうにか居場所を見つけること

ヨガで、この「エッジ」において目指していることは、
強いて言うならば、3つ目の選択肢が近いのかも知れません。

 自らの意志で迎えたギリギリの瀬戸際で、
 諦めるのではなく、力づくで頑張るのでもなく、
 深く呼吸をして、
 そこから先は、宇宙の力にまるごと委ねる。


この感覚は、ヨガという体験だけにとどまらず、生きることすべて、
人や社会、自然や宇宙との関係性にも、あてはまるだろうと感じています。

最大限に可能性を広げ、抗わずに心を開く。
抵抗を手放して、私を導く力に耳を澄ませる。
一方で、踏みとどまる。
今この場所に、強く立つ。
そして、
そのチャレンジを、穏やかに見つめる。



「どうして私は、ココにいるのだろう?」

 理由は知らなくてもいい。
 謎は解けなくてもいい。
 ただこの感覚の正体にさえ気づいていれば、
 きっと私は、迷わずに歩いて行ける。
motoka



17:50:00 | milkyshadows | |

02 March

極意。

流れのままに生きるって、どういうことだろう?

 だって、
 モノゴトの「流れ」って、たしかに感触を実感することもあるけれど、
 それにたいしての「抵抗」という体験も、同じくらいにリアルで大きい。

 本当に力のある人って、しなやかだと思う。


或るイカしたオヤジが、こんなコトを言った。
 「俺は、こだわらない、って事にこだわってるんだ」
 うん、それそれ! 余裕の一言__

 何かを手放す、って勇気が必要。



本気で走り出そうとするのなら、
今両手に抱えているものを置いてゆくべきだ。
そうでなければ、
走ることを、楽しいとは思えない。


 抱えているモノが何であれ、
 ソレがなかったら、私は私でなくなってしまうのかしら?


何モノにも寄りかからずに自分の足で真っ直ぐに立つ、ということを「自立」というのなら、
それはまた、
自分の中心を知るということなんだと思う。
 
 つまり、そういうチャレンジ。
 私はどこまで透明になれるだろう。。?


極意は、
流れていること。
開いていること。
17:50:00 | milkyshadows | |