Archive for 16 September 2007
16 September
オーガズミックな歓びの中で
身体は叡智を持っていますから、
どう動きたいのかは身体が分かっているんだと思うんです。
どう動きたいのかは身体が分かっているんだと思うんです。
___ベリーダンスは即興の踊りですが、それは、踊っていて流れが見えるのですか? 勝手に動くのですか?
どうでしょう。。
少し話がズレてしまうかも知れませんが、私がシェアをしたいことは、テクニックではないんです。ベリーダンスを扉として、エネルギーが周ることを体験するツールとしてのアプローチなんです。
例えば手を動かすにしても「こう動かしたらキレイだ」という意識で踊るのではなくて、身体は叡智を持っていますから、どう動きたいのかは身体が分かっているんだと思うんです。その感覚をシェアしたいんです。
もちろんエネルギーの流れがビジュアルで見える方もいらっしゃると思いますが、私はそれが見えている訳ではなくて、その感覚に乗っ取られてトランス状態に入ることによって、すべてが勝手に起こってくれる、ということです。
それは、「信頼」の質だと思います。
___「信頼」?
自分の「身体の声」に対する「信頼」、と言えば良いでしょうか。
___なるほど! まずは、自分自身の身体を信頼しなくてはいけないということですね。
そうですね。
身体から送られてくる言語への信頼は、自分のエゴや恐怖をちょっと脇に置いたり、手放せたりした時にポンと訪れるんだと思うんです。その感覚をシェアするためのツールが、たまたま「ベリーダンス」だったということなんです。
そして、自分と一緒に踊ってくれた身体に感謝して、心と身体と魂に対して深呼吸をして終わりにするんです。それはそこで終わりにする。息を吐き出して手放す、ということですね。
「呼吸」はそのものが「生死」ですから、短い時間でも生まれて死んでを繰り返している。そこへ入って行けるということは、ツールが何であれ素晴らしいことだと思うんです。
「生きている瞬間」の積み重ねが出来て行ければ、何をしていようとどこに居ようと、あんまり関係ないと思うんです。
「空」とか「無」、
それが自分を何かクリックしたんです。
それが自分を何かクリックしたんです。
___「リクタ/rikta」というお名前は旅の中で授かったそうですね。
そうです。
インドでいただいた名前で、サンスクリッド語だと思いますが、「空」とか「無」、「empty」という意味です。その時はまだ踊りを始める前だったので、ちょっと怪しい気持ちだったのですが、「empty」という意味を見て、それが自分を何かクリックしたので、すぐに名前を決めました。
今自分がシェアをしていることが、まさに「無になる」とか「空になる」ということなので、すごく気に入っています。
___素敵なお名前ですね。
海外で放浪生活をしていてこそ出逢える人がいたり、自分に気づきが起こったりしていて、そういう生活をしていることを活かせる役割がきっとあるはずだ、という思いが頭の片隅に長い間あったんです。それが最近までハッキリしなかったんですが、今は、日本にいる皆さんとの橋渡しになれたらいいなと思っています。
___世界を旅していると、日本の社会はどう見えますか?
「日本の人」と括って見ることは出来ませんが、肉体的な距離感があることや、持っている感情を爆発させることにブレーキをかけてしまうようなことを感じることは多いですね。
___それは、どういうことだと思いますか?
そういう文化ではない、ということでしょうか。
例えば、怒りたい時に何も考えずに怒ることはなかなか出来ないでしょうし、愛情を感じた時に思考を忘れて涙するようなことは大人になったら無いことだと思います。抱きしめることや、互いに目を見て一緒にいることや、そういう環境で育ってはいないと思うんです。
でも今は、いろいろな意味で変わって来ている時のように感じませんか? みんなが新しい生き方を始めている。
本当にオーガズミックな歓びの中では、
他の人を傷つけるような時間やエネルギーは無いと思うんです。
他の人を傷つけるような時間やエネルギーは無いと思うんです。
___大切なことに気づき始めているような、胎動を感じます。チャンスかも知れませんね。
これから伝えて行きたいことはありますか?
特に女性の人たちに対して、 たくさんあると思います。
自分を満たすということ、 本当に恍惚で「ただただ吐息や涙が出てくるものは何なのか?」ということに、女の人が子宮のレベルで触れていったら、自然に世界が動くと思うんです。
特に都会に住んでいると、すごく勇気の必要なことだと思います。流行ものは全部入ってくるし、情報はたくさんあるし。だけど、太古に布一枚で暮らしていた時のようなトライバルな感覚を身体で感じて、自分のリズムを聴いて、今何が流行っているからというのではなくて「本当にオーガズミックな歓びを与えてくれるのはこれだ!」と勇気を持って言えるようになっていったら楽しいですよね。
本当にオーガズミックな歓びの中では、他の人を傷つけるような時間やエネルギーは無いと思うんです。
___リクタさんのなさっているワークやセッションは、その為なんですね。
そうですね。
自分が一瞬でも味わったそういう状況を、体験を通して伝えることが出来るかも知れないという思いなんです。
例えば、日本での仕事の場合、タントラや瞑想のワークをシェアすることが多いのですが、参加者の方に「日本ではこういうワークは無いですよね」と言われます。私も日本人ですが、日本人には無い感覚のアプローチというのは、やっぱり、海外に居れたからこそ得れた部分なんだと思うんです。
___皆さんの反応はいかがですか? どんなお声がありますか?
「衝撃を受けた」とおっしゃる方も多いですし、「自分に対して”YES”と言うことですごく楽になった」というフィードバックをいただくと、「あぁ伝わって良かったぁ」と思います。
___リクタさん自身も得るものがある。
もう、そのまま私が得てるんです!(笑)
「タントラ」という言葉のルーツには、「意識の拡大」や「糸を紡いでいく」という意味があるんです。それをシェアしていくことが自分自身を拡大拡張していくことであったり、人と深いレベルで繋がるということで、どんどん織物が織り上げられて行く。
それは、それが誰のものとか、それを使って何をする、というレベルの話ではなくて、それぞれの違う色の糸が織られて行って、ただそこにそういう大きいものがある、ということです。そうして繋がって行くことによって、気がつかないうちに、自分の持っていないことを他の人から自然に受け取っていたり、自分からも他の人に与えていたりするのではないでしょうか。
そういう時代が来ているように、感じています。
恵み について
「知識」と「知恵」はどう違うのか?
ある人にそう聞かれて、ハッとしました。
「だって、“知恵”は“恵み”と書くでしょう」って。。
人類は「知恵」を授かって生まれてきた。
そして千年をかけて「知識」を構築した。
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現代社会で「教育」とよばれている作業の本質は、
つまり、
授かった「知恵」を「知識」へと変換する作業なのかも知れません。
気まぐれで捉えどころの無い「恵み / 知恵」という有機体を、
分析し、解析し、合理的に体系づけて、管理して飼いならす。
そうして体裁を整えられて「知識」へと変換された情報は、
誰にでも分かりやすく、扱いやすくて、素早く伝えられるから、
地球上の津々浦々にまで、遍く恩恵が及ぶ。
「知識」は積み重ねられて、「幸福」が大量生産され、
私たちは、繁栄を享受している。
さて、「幸福」は大量生産できるのでしょうか。。?
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「知恵」は、「知識」に変換することで「商品」となる。
もう少し露骨に言えば、
つまりそれは、カネを生む。
そして今や、
身体や心や魂までもが「知識」へと変換され、消費されている。
「知恵」という恵みは、
経済原理の下に呑み込まれようとしている。
それでも、
私たちが授かった「智慧」は驚くほどに豊かなのだと、あらためて思うんです。
驚くほどに豊かで、そして、怖いほどに深い。
怖さゆえ、持て余し、浪費している。
「ムダ」というのは「豊かさ」 と不可分だから、
「浪費」もまた、「知識」の為の揺かごなのかも知れません。
それならば、
いったい目的は何なのでしょう?
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「魂」までをも地平に取り込もうとする「知識」というものの先に、
いったい、私たちは何を見ようとしているのでしょうか?